JICA「タイ国理科教育推進協力事業」体験談
私は,ユネスコのコロンボ・プラン(戦後補償)である理科教育改善活動のためのJICA(国際協力事業団)の派遣専門家として,1981(S56)年11月3日~1982(S57)年11月2日迄の1年間,文部省から推薦を受けタイ国に派遣された。はじめ,赴任期間は半年でよいとのことであったが,赴任がきまったら1年に延ばされた。物理学教室の了解も取れたので,問題もなく赴任した。私は博士号(論文博士)を取得して講師に昇格して頂いて1年後くらいの時期の赴任であったと思う。タイ国の業務の様子は,学大の物理学教室から私の赴任前にタイに行かれた鳥塚先生や佐藤先生から多少入っていた。
当時,私の家族は,妻と1歳と3歳の娘が2人いた。いろいろな事情で妻も一緒にゆくことになった。また,子供の面倒をみてもらえる親族もいなかったので,ついでに娘2人もつれてゆくことになった。こうして家族全員でタイ国へ赴任することになった。JICAの事前説明会では,「幼児をつれてゆくなどとんでもない」という医師のお話があったが,現地へ行ってみると問題はなかった。粉ミルクも現地で手に入った。私も家族もコレラの予防注射を含む数種類の予防注射をした。しかし,コレラは,現地の病院で「コレラは今はもう心配いりませんよ。危険であったのは10年ほど前の話ですよ」と笑われた。マラリアが心配であったが,予防薬はJICAから支給された。
私は1ヶ月程,バンコクにある教育省に滞在し,そこから東の隣国ラオスとの国境に近いチャンタブリにある教員大学へ赴任することになった。最後の3ケ月はまたバンコクの教育省に戻った。
要請の背景
タイ国においては ,1982年から第 5 次経済・ 社会 5 ケ年計画が始まり,そこでは ,教育制度の政善に 関する多くの計画が盛られている( 参考文献 1 ) 。一方,日本国とタイ国の間では,政府問ベースによるタイ国の理科教育推進協力事業が 1 9 7 1 年から継続して行なわれていた。この事業は, 1 9 6 5 年の第2 回アジア地域文部大臣・ 経済企画担当大臣会議において ,理科教育 の推進が ,農業・ 漁業・工業等のあらゆる側面にわたって東南アジアにおける発展途上国の経済・社会発 展に重要であるとの一致した認認の上に 築かれたものである。
このような経緯の下 に,タイ国教育省は日本政府に理科教育推進協力事業として,特に新設教員養成大学における理科教育のレベル・アップのために ,理科教育(物理・一般科学 )及び理科教育( 化学)の2 名の専門家の派遺と機材の供与を要請し,これが実現をみたものである。
タイ国の教員養成大学は 、教育省の管轄下にあり 、管乾・予算共に一般大学と は別になっている 。教員養成大学は、全部で 36校あり、そのうち約 1 0 校は 1 0 年程前に世界銀行の援助の下に設立された新設教員養成大学である。新設教員養成大学においては 、設立以来、予算不足のため 設備充実の進展はほとんど無かった。従って、新設教員養成大学理学部には、ごく簡単な器具類しかな く、タイ国教員養成大学のカリキュラムに定められている学生物理実験をも満足に行なえない状態である。ましてや、研究設備は 皆無に等しく、専門的な 研究は不可能である 。赴任先の チャンタブリ教員養成大学も新設教員養成大学であり、その例にもれなかった。
タイ国教育省教員養成局は 、当面、理科教育推進協力事業を新設教員養成大学理学部の充実に向ける方針であり 、これによって、本年度は,チャンタブリ教員養成大学理学部が対象となった。優れた教育を行なうためには、良質の教員を 養成するのが最も重要であること は、今や世界の教育界の共通認識と言ってよい。従って、この方針は当専門家にとり正しく思われた。
こうした背景のもとに,私は理科教育(物理・一般科学)の専門家として赴任することになった。私には,私のカウンターパートとして,タイ教育省の女性Mukuda氏 が選任され,同氏は私が地方大へ回ったりするときには同行して下さった。同氏は英語が話せた。私もへたな英語一本で通した。
要請書の業務内容
Application for expertに記載されていた業務は、以下の6 点であった 。
- 機器の使用方法についての指導並びに機器の修理・保守
- 簡単な器具の作り方の指導
- 科学教育法の演示
- 科学分野の教官 への、科学のいくつか のトピックスについての講義
- 科学教科の授業並びに学生や教官に対する科学研究の方法の指導
- 科学カリキュラ ムの発展に対し て示唆を与えること 。
赴任先は,次のとおり。
1981(S56)年11月~12月中旬 タイ国教育省教員養成局企画課
12月中旬から1982年9月中旬 チャンタブリ教員養成大学理学部
9月中旬から10月末 タイ国教育省教員養成局企画課
実際に行った業務の内容について,簡単に述べる。
タイ国教育省教員養成局では,教員養成大学および小・中学校等の視察・講演,学生物理実験の器具作成および手引書の執筆,各種の相談などを行った。
カンボジア国境と海に近い街チャンタブリにあるチャンタブリ教員養成大学では,私は学生物理学実験室つくり,パソコンの使用法並びにそれを用いた入学試験業務への利用の指導(プログラム開発を含む),講演・視察および種々の相談などを行った。なお,地方の教員養成大学から届いた機器の修理依頼などもあった(周波数発振機など)。このチャンタブリ教育大学には,私とほぼ同時期に,京都教育大学の澤田誠二さんが化学教育の指導で赴任された。また,米国からは英語学の先生(女史)もいらしていた。
【写真】チャンタブリ大で打つ合わせ中の筆者
日本出発前にタイ国へ持参する購送機材を準備した。それらは,オッシロスコープや教育用のレーザー光源(He-Ne)などである。学生物理実験室つくりは,実験用物品の蒐集,実験装置の製作,英文手引書の執筆とタイプ,図版の作成,教員やカウンターパートに対する各実験の説明,実験方法の指導,作製した機器・装置の保守・管理等からなる。学生物理実験室つくりにおいて,実験テーマの設定は,購送機材と当国で入手可能な物品をにらみ会わせて決定した。物理・一般科学に 関する 10分野約 40テーマをつくった。これらは,主に日本の大学で2学年で行われている基礎実験のテーマである。それに,理科教育上必要と思われるのを若干付け加えた。
製作は,チャンタブリ大の教員にも一緒につくってもらって,ものつくりを経験してほしかったが,教員の方々は授業負担が多くて,時間がない(同大の授業負担ばかりでなく,地方の教員研修所への出張講義にも出かけておられた)。授業負担の多さは,日本にいるときの自分と同じだと感じた。やむをえず,一人でコツコツと制作に励んだ。総じて,教員養成大学は,人員が一般大学に比較して少なく,授業負担が多いのは世界共通かもしれないと思った。
金属の熱膨張を実験するための,ニクロム線を素焼きの筒に入れて加熱する電気炉は,市場で素焼きのツボを見つけてきて穴をあけてつくったり,電気回路をつくるために,市場でたたみ1畳ほどの大きさのアルミ板を買ってきて,自分で切り,穴をあけ,シャーシをつくった。日本ではシャーシは発注すればすぐ入手できた。こちらでは,教材会社がないので自作だ。部品もバンコクの電気街に調達に出かけたりした。
ある時,チャンタブリ大の物理科の主任級の人物に,私が作っている実験装置は「農民には役立たない」とボソッと言った一言に驚かされた。確かにチャンタブリは農業地域であるが,大学が地域の産業と連携する役割があったとは思えない。卒業生は教員になるので,この考え方は変だ。その時,私が思ったのは,明治期の日本における大学の外国人教師の発言として,「日本人は科学の神髄(考え方)をわかろうとせず,ただ応用ばかりである」といったことをどこかで読んだことがある。この人物の発言も,これと似た話だなあと思った。私は,この人物に対して,科学的態度から変えて頂かねばならないとふと思った。他の教員はそのようなことはなかったが・・・。
私は購送機材のなかにマイコン(現在のパソコン)を1台追加した。このマイコンは,Sharp製のOSを入れ替え可能な当時としてはメモリの大きなマイコンであった(SHARP MZ-8-808,64K,CRTディスプレー・カセットテープレコーダー付)。この機種を選んだ理由は,この機種がコンピューター言語が将来変わっても使えるように設計されていたためである。永く使ってもらうために予算の範囲内でできるだけ性能の良いものを選んだ。メモリーの大きさ64Kは,今からは想像できない小ささだ。当時マイコンは発展途上であった。事実,当時はまだ「ひら仮名」が扱えず,アルファベットと片仮名しか使えなかった。なお,プリンタの他に,当地で電圧があまり安定していないとマイコンに悪影響を及ぼす恐れがあるためレギュレーター(入力220V,出力220V)も持参した。
購送機材の予算総額は400万円程度であったと思う。これは全て機材に充当したわけではない。発展途上国の教員養成大学では,予算不足で,学生の基礎学力を高めるために必要な基本的な学術図書をそろえることもままならないであろうと考え(実際そうであった),物理学の「ミニ図書館」をチャンタブリ大につくるべく,30冊程度の物理学の著名な洋書を加えた。これらの図書の2/3は廉価なリプリント版であった。長い年月の間に,次第に効果を発揮することを期待してのことである。
購送機材用の予算は,もちろん,十分ではない。少し高度なテーマ用の機材は購入できない。なお,現地で,半導体などの電気部品を購入したり,物理実験の器材用の材料(アルミ板など)などを購入した費用は,帰国後,JICAが私に払い戻してくれた。
英文の実験操作マニュアルつくりを主に念頭において持参したマイコンであるが,それを見たチャンタブリ大から入学試験に活用させてもらえないかという相談があった。これは本来の物理教育の業務ではないが,ソフトを作って協力することにした。私は,同大の教員から同大における入試の選抜方法を聞き取り,プログラムを作った。これらのデータ処理の方法は,日本の大学のそれとほとんど同じと思う。
作製したプログラ ムの骨格は,誤差関数の積分 ,学生番号・ 科目別 ( 2 科目 )得点,志願者データの C P U への入力,入カデー タの修正,データのM T への 格納,平均値・標準偏差等の計算 ,得点の大小顛並べ換え( 科目別),度数表の作製 ,T-score 変換,学生番号順 2 科目 T-score検索及び weighted T-score の計算,weighted T-score の大小順並べ換え等からなる。このプログラムは,供与したパーソナル・コンピューターのほとんど全メモリーを使うものであった。このプログラムにより,数週間くらいかかっていた入試事務が数日で終わることになり,私は大学から随分と感謝された。
視察・講演
教員養成大学は,Thomburi Teachers College,Bansomde Teachers College,Tepsatri Teachers College, Suwan dusit Teachers College,Surin Teachers College,Peburi Teachers College,Chaingmai Teachers College,Chaingrai Teachers Collegeの8校を視察した。
学校は,Sattasamut Secondary School,Muang Samut Primary school,Wat Pombaev Primary school,Bna-Pu Muang Primary schoolの5校を視察した。Bna-Pu Muang Primary schoolはフリー・スタイル教育の実践校として有名であった。
講演は,タイ国教育省教員養成局・滞在先・ 視察先等の要請により,8件の講演を行なった。講演テーマは ,ほとんどが 講演先から指定された。
相談も多数あったが,内容は割愛する。
ある有名な一般大学(国立)を訪れたことがある。電子顕微鏡も持っていてセラミック研究をしており,日本人専門家もいらした。また原子核研究も機器がかなり充実していて,私が赴任あるいは視察した教員大学とはまったく様子がちがい,堂々たる設備がある。それに比較して教育大学は予算が少ない。これは途上国の一般的傾向であると思う。タイ国政府がこの計画を尊重している理由がわかった気がする。
理科教育
チャンタブリ教員養成大学や地方の教員養成大学を訪問した際に,教員や学生の実験に対する態度を垣間見ることがあった。学生は測定の平均を取らない,教員も機器の「つまみ」を急激に回すなどのことがみられた。これは実験を体験していないので,習慣化していないためだ。そのため,科学的態度も形成されていない。日本の子供は,小学校時代から,何回か測定して平均をとるように指導されていると思うし,教員は機器のつまみをゆっくり回すだろう。日本の教育のすばらしさを改めて感じた次第である。しかしながら,自然や科学に対して強い興味をもっている学生や子供も多いように感じた。
チャンタブリでの生活
チャンタブリは,緑多き美しき町である。
チャンタブリの中心部には小さな湖(東京の吉祥寺の池くらいの大きさだったかも)があり,湖畔には日本の協力でできた大きな病院があり,そこには日本人専門家も数人赴任されていた。後に,この病院ではいろいろと世話になった。チャンタブリの周辺部にも大きな池がある美しい場所があった。
【写真】チャンタブリの公園に建つ像ー歴史を物語っている
【写真】チャンタブリの街中風景
チャンタブリは,ドリアン,マンゴスチン,マンクットなど果物の名産地であり,また海にも近く(車で1時間程度だったか?),エビなどが養殖されている。
ドリアンは果実の王様と言われている。タイ国内でも,安い果物ではなかった。匂いがきついので,ホテルに持ち込もうとすると断られるという話を幾度となく聞いたが,私は嗅覚がにぶいのか,臭いと思ったことはない。味は濃厚なバターのようで,私は大好きだった。マンクットは,果実の女王と言われている。白くてミカンのような形の実が黒っぽい皮に包まれている。味は上品な酸っぱさがある。また,マンゴスチンは赤いイチゴのような果実に緑色の毛が生えている果物だ。
【写真】チャンタブリ近郊のドリアン市場
大きなクルマエビ゙は市場で買えた。タイの人々にとってはかなりのぜいたく品のようで,主にレストランが買ってゆくらしい。海岸近くのレストランではエビの塩焼きを楽しむことができた。
また,町中には宝石商も多い。ルビーやサファイアなどが売られている。かつては,この近くの鉱脈からルビーなどが採掘されたようだが,今は採れない。宝石は近隣の国から輸入して加工しているという話も聞いた。
チャンタブリ教員養成大学(Teachers College,現在は王族の名前に改名されてランパイパニ大学)は,王族の離宮跡に建設され,広大な敷地をもつ。この敷地内に,王族の一員が以前ご使用になっておられた米国風の二階建ての大きな一軒家が空き家になっており,私ら家族はそこを宿舎に提供された。家の前には,ブーゲンビリアの大木が赤い花をたくさんつけていて美しい。大学の敷地内には教員宿舎も数多くあったが,この家はそれらに比べるとずいぶんとぜいたくなものであった。エアコン,カーペット,冷蔵庫などは自費で整備した。また,娯楽がないので,カラーTVを自費で購入した。TVでは,毎朝定刻にタイの国家が流れる。1歳の娘は,国家が放送されると,立ちあがって踊った。
【写真】宿舎前で咲き乱れるブーゲンビリアの大木
買い物やバンコクへ出るのにも家族づれなので,自動車が必需品だ。JICAのお世話でいろいろな分野の日本人専門家が帰国時に手放す中古の自家用車を1台購入した。日本で国際免許証を取得しておいた。日中は,家内が買い物へ町の市場へこの車で出かけるので,私は大学からバイク(HONDAのカブ)を借りて,学内の移動に利用していた。
私は,平日は早朝から夕刻まで科学棟へいって仕事をしていた。子供は私がキャンパス内にある幼稚園に送っていった。
休日に日中,町を娘をつれて歩くと,たちまち,娘たちは「気持ちが悪い」と言い出す。気温が35℃程度でも,アスファルトの路面もっと熱い。路面が熱いから熱中症気味になる(当時は「熱中症」という言葉も無かったと思う)。ましてや子供は低身長なので,大人よりも熱く感じる。こうなると,冷房のきいたアイスクリーム屋を見つけて中に入る。するとしばらくして娘たちは元気になる。タイの人々も,朝,出勤時にバスを待つとき,電柱の陰に入ろうとする。人間は民族によらず,同じようにできているのだなあと思った。タイの人々は,熱帯に住んで暑さになれていると思ったが,やはり熱いのだ。
生活上,いろいろなことがあった。
夜になると,天井や壁に大きなトカゲ(20から30cmくらい,「トケー」と呼ばれている)が数匹現れてトケーとなく。攻撃性はないが不気味である。トケーは虫を食べるようだ。ベッドの上に落ちてこないか心配だった。
ある日,私は仕事に熱中するあまり,長女を幼稚園に迎えにゆくのをすっかり忘れてしまった。私がいつも午後4時頃に娘を一度宿舎へつれ返り,その後また科学棟へ戻って仕事を続けるのが常であった。それが仕事に夢中で娘のことをすっかり忘れ,午後6時過ぎになって幼稚園の先生が科学棟へ知らせに来てくれた。辺りは暗くなり始めていた。急いで幼稚園にゆくと,娘はショックを受けた顔つきで無口になっている。チャンタブリにきて幼稚園に通い始めてすぐであったし,言葉も通じず,さぞ心細かったろうと思う。それから10日間ほど,娘は幼稚園にゆくのをいやがって休んだ。精神的な傷を負わせてしまったようだ。この3歳の娘は,幼稚園に通ってからタイ語を覚え,簡単なタイ語の通訳をしてくれた。タイの方からの「お父さんは家にいますか」という質問に「います」と答える具合だ。
ある時,30cmくらいの緑色の蛇が台所に入ってきた。それを見た1歳の下の娘は,その蛇をつかもうとした。まだ怖さを知らないのだ。グリーンスネークは毒蛇である。
ある時,チャンタブリの市場で,日本の「するめ」とほとんど同じ(日本の方が肉厚で大きい)ものを見つけた。なつかしいので,酒のつまみにしようと数多く仕入れた。少し湿っぽかったので,家の前の木に紐をはって(高さ1m80くらい?)干しておくことにした。夜中にかすかに変な音がするのに気付いたが,眠いので気に留めなかった。翌朝見ると「するめ」が全部ない。犬がジャンプして取っていったようだ。かすかな音は犬がジャンプする音であったのだ。犬もさるもの,吠えずに静かに取っていった。
毎朝,台所をほうきで掃く。アリは砂糖つぼにむらがる。ほうきではけるほどの量だ。チリトリに小さなアリが山のようにたまる。また,ネズミが石鹸をかじる。
ある日,家の前で野犬が死んでいた。自動車にひかれたらしい(ひいたのは私ではない)。処理に困って数日そのままになった。すると,犬の死骸に大量のノミが発生し,ノミが家の中に入り込み,お手伝いさんがいた1階の部屋に入ったらしく,かゆくて寝れないという。幸い,JICAの携行薬品箱に虫よけの燻蒸剤が入っていたので,部屋を密閉して燻蒸剤をたいて退治した。犬の亡骸は学生たちに片づけてもらった。
妻が昼間一人で寺院見物にでかけた。他に参拝客がいなかったようだ。妻は青年に後をつけられていたらしく,寺院への階段を上がったところで,その青年にハンドバッグをひったくられた。タイの人からみたら,かなりの大金であった。怪我がなかったのが,何よりであった。
チャンタブリで1月位たつと,妻の様子がおかしくなってくる。日中,お手伝いさんはいたが,彼女はタイ語しか話さない。後は1歳の娘がいるだけだ(3歳の娘は幼稚園へ行っている)。日本語を話す相手が誰もいない。妻は別に文句も言わないが,次第に「うつ」になったように生気がなくなってくる。顔の表情に出るのですぐわかる。すると,家族を自家用車に載せてバンコクのホテルへでかけ,日本食を食べることにする。すると妻も元気になる。バンコクまで車で片道4時間半くらい。道路は軍事利用も念頭にいれているのでよい。
ある時,バンコクからチャンタブリへの帰路,あぶない目にあったことがある。私と家族3人と,お手伝いさんの5人が車に乗っていた。お手伝いさんは子供の世話係と通訳(日本語はわからないが,身振り手振りを交えれば何となく通ずる)。バンコクで夕食をとったせいで,自家用車で出発したのが午後7時過ぎになってしまった。チャンタブリに比較的近い途中で(チャンタブリから10km~20km位の所だったと思う),あることが起きた。それは夜10時ころで,辺りは道路灯が無いので真っ暗である。人っ子一人歩いていないし,他の車も走っていない。自動車のライトでかすかに見える道路わきは木が密生していたので林か森であったと思う。ところどころ崖もあったように思う。
突然,後ろから車が接近してきて後方から強烈なライトを照射され,前方が見えなくなった。私は時速80km位で運転していたので,警察に速度超過で追跡されたのかと思ったが,その車に赤ランプはない。照射で道がカーブしているかわからなくなったので,すごく不安になる。しかし,急に止まれば追突するし,照射のしかたも上向きであまりに強力なので,「何か変だな」と思い,少しスピードを落とす程度で運転を続けた。すると今度は,その車は私の車を追い越して前にきて,前方からまた強力なライトを浴びせかけてきた。それを数度繰り返された(2台の車にはさまれていたのかもしれないが?)。私は「止まるとかえって危険かも」と思い,スピードを落とさず,時速70~80kmで運転を維持した。もっと飛ばして逃げ切りたかったが,道の中央に白線がないので,道がカーブしているのか直線なのか,道路状況がまっくらでわからない。はずれると崖下へ転落する。これ以上スピードを出すのは危険だった。10分から20分位カーチェイスを続けたと思う。するとやっと畑や田んぼが広がる開けた場所に出たようで,遠くにポツンポツンと家の明かりが見えてきた。するとその妙な車は去っていった。ライトの照射で家族連れの外国人が乗っているとみて,問題を起こせば国際問題になり,捜査も厳しくなるのでやめたのだろうか? 後日,私たちが妙な車に遭遇したあたりで,クルマで追いかける「おいはぎ」がでるという話を英字新聞でみて驚いた。新聞では,発砲で死者もでたという。冷や汗をかいた。
チャンタブリ大でタイ国内の教育系の全国会議があり,全国から先生方集まったことがあった。朝,私が庭先に佇んでいると,突然一人の方が私の家の方に近づいてきた。身振り手ぶりでやり取りすると,どうも朝食を所望しているらしい。我が家はもう朝食は済ましていて片づけてしまっていたので,学内の教員の住居を教えた。タイでは,食事を所望されると誰に対してもタダでふるまうのが習慣であることを後で知った。その方に申し訳ないことをした。
タイの人々
タイは微笑みの国である。寺院も多い。タイの人々は敬虔な仏教徒が多く,穏やかな方が多いと思う。生き物を大切にする。虫の命も大切にしてやたらに殺さない。大学教員も数ケ月間,寺院で修行する人がいた。
バンコク
バンコクはタイ国の首都だ。タイ語で別名クルンテープ(天使の都)という。日本のホテルもある。
バンコク滞在中では,レストランで食べた「タイすき」がおいしかった。海産物のすき焼きといったところか。またバンコクには,観光客にタイの踊り(宮廷音楽)を見せるところがあった。タイのきらびやかな民族衣装を身についた十人ほどの踊り子が,指をそらす独特な踊りを見せてくれる。実に上品な踊りで,私はこの踊りが好きだった。家族で数回見に行った。
怪我・病気・事故
私たち家族の宿舎は,大学の入り口から500mほど入ったところにあった。そこから科学棟へ毎日バイクでむかう。途中小川 と木の橋があった。ある日,出勤途中,その橋の左右の隅の板の段差にバイクのタイヤが乗り上げてしまって転倒し,左肩の骨を骨折した。力が出ず,動けず,不思議な感覚であった。そばにいた学生が家内に連絡してくれて,車に乗せられて町の湖畔の日本が支援している病院に行った。私の顔は青ざめていたそうだ。病院では,大勢の現地の方々が診察を待ち合わせていたが,日本人ということで,優先的に見て下さったようだ。医師は英語が通じて助かった。また,X線技師は日本で研修を受けた方で,簡単な日本語を話すことができた。診察の結果,左肩の骨はほとんど取れるところであった。その病院で固まるのを防ぐため,リハビリに通った。1月程続けたと思う。その後,10年間ほどたっても,よく動かない時があり,また強い肩こりにも悩まされた。
ある時,マラリアに似た症状がでた。ものすごい寒気がしてがたがたと震えがでた。妻に上から押さえつけてもらってもまだ寒い。お手伝いさんにマンゴーを買ってきてもらって食事の代わりにしたが,それで元気が戻ってきた。後日,血液検査でマラリアではないことがわかって一安心した。原因が何であったか分からない。
1歳の娘のツメが剥がれ,病院へ連れて行った。ペンチのようなもので一気に爪を抜いた。娘はギャーギャーと泣き叫んだ。さぞ,痛かったと思う。上の娘を虫歯治療で歯医者にもつれていった。当地では虫歯はすぐ抜いてしますということであったが,抜かずに治療して下さるよう,一所懸命お願いし,そうしてもらった。
帰国の準備
帰国が近づいてきたある日,チャンタブリ大学で,学長から「大学は予算不足で困っている。収入がほしい。何か方法はないか」という相談を受けた。キャンパスには広大な芝生があった。そこで,私はゴルフはやらないのだが,敷地の一部をゴルフ場にすることを進言した(ゴルフボールが学生にあたる事故も気になったが)。その後ゴルフ場ができたことを人づてに聞いた。近くの病院の日本人専門家やビジネスマンがくるようだ。よかったかどうか?
帰国時には,エアコンやテレビなどの家財の処理をした。エアコンは学長室につけたいのでゆずってほしいといわれ,バイクを貸していただいたり,娘を附属幼稚園にいれて頂いたり,いろいろとお世話になったので,無料での提供を申し出たが,それではかえって困るといわれたので,1バーツ(100円未満)で譲ってきた。カラーTVも教員のかたに安く譲った。
旅行
この計画が,タイの国境周辺の地方大のレベル向上を目ざしていたので,仕事で,カウンターパートのムクダさんと一緒にタイ国の北方のチェンライからチェンマイを訪問した。家族連れでいった。途中,地面から温泉が湧いている平地を通過した。温泉としては利用しておらず,ゆで玉子をつくっているだけだったが,私はこんなところに温泉がわくのかと驚いたとともに,タイ国の地質の成り立ちにも興味を覚えた。
チェンマイはタイの北部に位置していて,海抜が高くて涼しいので,日本人観光客もよくいくところだ。王宮跡があった。銀食器や漆器の生産が有名で,ムクダ氏の案内で工場を訪問した。黒地の漆に金色の天女が琵琶をひく絵柄の漆器は,現在の私の書斎にかざられている。近くの離宮跡にも立ち寄った。チェンマイから車で2時間くらいであったか,ものすごいがたがた道をトラックで走り,山岳民族の村を訪問した。刺繍の入った民族衣装を身に着けた人々や機織りをみた。タイ国政府が,この地域の教育の普及や改善に取り組んでいるとのことであった。
同じく北部にチェンライがある。そこはラオス,タイ,ミャンマーの3国の国境に流れる河だ。チェンライ教員養成大学の先生が連れて行ってくれた。ここは「黄金の三角地帯」と言われていて,危険な場所でもある(麻薬が生産されているらしい)。
地方に仕事にいったとき,場所は忘れたが,象のファームにゆき,象の背中にのって写真をとった。初めての経験をした。
学大の岩下先生が,学大へ原子核の研究で1年間来たいというインドの大学の研究者と交流するために,インド行きの途中でタイにいらしたので,バンコクでお会いした。タイの有名な建築物を集めた公園を訪づれた。
ある時,私の弟がタイに遊びにきたので,家族もつれて遠足に出かけた。「戦場にかける橋」という有名な映画があったが,タイの西方でビルマとの国境に接してカンチャナブリ県があるが,そこを流れるクワイ河に架かる橋だ。タイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道にかかる橋である。映画では木造の橋だが,実物は立派な鉄橋だ。私たちは,確か,ここからクワイ河を船で移動したと思うが,河沿いにある「戦争博物館」へ立ち寄った。この内部には,広大な戦没者墓地が広がっていた。泰緬鉄道の建設で命を落とした外国人捕虜の方々の墓碑かもしれない。美しい整備された公園のなかに多くの墓碑が整然と並んでいた。欧米人も墓参にいらしていた。また,公園の近くには,小屋のような建物の小さく粗末な私設の「戦争博物館」があった。辺りは河が広がっていて実に美しい風景であった。入ってみると,当時の写真が展示されていた。そこのタイ人の職員に睨みつけられた。多分,その方の親族が泰緬鉄道建設に動員されて亡くなった戦争の犠牲者だったのだろうと思う。まだ戦争の爪痕が残っているのだ。
写真:戦争博物館入口
写真:博物館内部 戦没者の墓碑が並んでいる。
写真:泰緬鉄道
写真:私設の戦争博物館
写真:私設の戦争博物館の近くの風景
交流
チャンタブリ教員養成大学では,教員が私的に英会話の練習をするために,宣教師のご夫妻を学内におよびして,私もお会いしたことがある。また,理学部長のスポ氏が,近くの難民キャンプで働いていた英国人のボランティアの方(男性)を紹介して下さった。彼は,タイ国の子供に童話の映画を見せていた。日本語の「かぐや姫」のフィルムも見せていて,私は,それがどういう話なのか彼から尋ねられた。
このタイ国赴任に先立つ数年前,私がまだ助手の頃,タイ国の理科の中学校教員のNarongさんが,学大に研修に1年間こられたことがあった。その方のお世話は私に任されていた。日本人学生にまざって物理実験をできるだけ経験してもらった。私と他の助手で力を合わせて,実験の手引きを英訳してあげた。Narongさんは,日本人学生が英語ができないので,彼らとの意思疎通ができず苦労しておられた。これがタイ国との初めての関わり合いであった。
この計画が終了後,1年後くらいに,チャンタブリ教員大学から,私が指導した教員が1名,東京学芸大学へ1年間留学に来た。コンピュータについて勉強したいという。彼からは帰国後1,2年して,同大で情報教育学部を作ったという知らせがきた。
また,私のカウンターパートであったMukudaさんは,日本に行きたいとよくおっしゃっていたが,日本の国際青年交流のプログラムの一環で,タイ国の学校教員の一行が日本にいらしたとき,同行してきて,同一行の歓迎パーティでお会いした。また,新宿の高層ビル内のレストランで食事をした。ムクダ氏は,「日本はどこにいってもきれいですね」とおっしゃっていた。
日本に帰国して数年後,チャンタブリ教育大学でお世話になった理学部長のスポ氏(数学)が筑波大で開かれた数学教育の国際会議に参加し,筑波から電話があり,旧交を温めた。
最後に
タイ国赴任は,つらいこともあったが,今から考えると,家族で行ったせいもあり,私の人生で最も楽しかったと思う。また,この赴任を通じて,私は理科教育の大切さにめざめた。こうした経験が後の私の運命をきめたと思う。
また,別稿にも書いたが,私はほぼ毎日,夜8時から10時か11時頃までの2,3時間,田井氏と共同でおこなったゴラントの「プラズマ物理学の基礎」の訳本つくりを半年以上続けた。日本にいたら多忙で無理だったろうと思う。
【参考】
- An Introduction to the Department of Teacher Education, Planning Division, Department of Teacher Education, Edited by Mrs. Chirot Mek-yong, Sep., 1980.
- 下條隆嗣,タイ国理科教育推進協力事業総合報告書 -物理教育を中心として-,1983年3月
2020年3月記