私の大学教員生活

エピソードや主な動きを紹介したい。

助手時代

1969年春,修士課程修了後,学校教員も採用数が少ない就職難の時代であったが,幸い,都や近県の高校教員採用試験を受けて合格し,採用の打診もいくつか頂いていたが,恩師の後藤捨男先生から助手になるよう言われて,同年4月から学芸大の物理学教室の助手に採用された(当時は助手の公募制は無かった)。

当時,物理学教室には3人の助手枠があった。当時の助手は,学生の物理実験の授業の手伝いが主なもので,時間的な余裕があれば,少し研究もできた(実際のところは,授業などがある日中は研究はほとんど無理で,午後5時過ぎから研究時間を確保できた)。助手は,学校教員になる前に,さらに実力を養うための短期的な職員とみなされていたようで,2,3年在職後に学校へ就職してゆくのが通例だった。

当時の助手は1年契約で,身分も不安定であった。毎年,年度末に助手を継続したいことを申し出て,教室のOKの判断を得なければ,自動的に首になった。私も数年立てば,学校教員になると思っていたが,その頃から助手の1年任期がのび,3年くらいになったと思う。そうこうしているうちに,さらに,任期制撤廃の動きがでてきた。それでも,学校へ転出する同僚もいた。次第に,研究助手の意味合いも強くなっていったように思う。私は,教育も好きだが研究も好きだったので,そのまま助手職の地位を継続してもらった(もちろん,大学に残った助手は,私以外にもおられた)。しかし,毎年,年度末が近づいてくると,今年でもう助手生活もおしまいかと不安な気持ちになったものだ。

助手になりたての半年は,学生の物理実験の授業のお世話に明け暮れた。授業には毎週大勢の学生が押しかけ,器具の整備をやってもやってもキリが無く,むなしく時間が過ぎてゆく。私は新しいテーマの開発も手掛けていた。半年ほどして,後藤先生から物理学の研究を始めるように注意された。

研究面では,後藤捨男先生に師事した。後藤先生については,本ブログの別稿「恩師を偲ぶ-後藤捨男先生」にゆずるが,素粒子物理学の専門家で,繰り込み理論でノーベル賞を受賞された朝永振一朗先生と,ノーベル賞の対象となった論文を共著で発表されたこともある御立派な先生であった。先生は,教育についても大変熱心であった。私たちは,レーザーや荷電粒子ビームを用いる慣性核融合を念頭において,プラズマの素過程からプラズマの加熱を研究したり,ビームの安定性などについて研究した。

当時,東学大では,プラズマの実験は,佐藤喜正先生がやられ,後藤先生が理論的なアドバイスをなさっていた。佐藤先生退官後は鳥塚先生が,核磁気共鳴,質量分析の研究とともにプラズマの実験もやられていたと思う。

ある年,まだお若い三島信彦先生が東学大に赴任されてきた(最初は講師でいらした)。後藤先生は,「三島君が東学大に来ることは,君にとっても良いことだよ」とおっしゃった。三島先生は素粒子物理学が御専門だった。後にパソコンによるシミュレーションなど物理教育も手掛けるようになった。当時パソコンは発展途上であった。三島先生のゼミには,のちにTEXAS大の統計力学研究所に赴任されたPetrosky氏も参加しておられた。三島先生は,私の書いた論文の英文を見て下さったり,よく面倒を見て下さった。ちなみに,後藤先生は,研究テーマの選定の相談や,ゼミで研究内容を聞いて下さっていたが,私の書いた論文の内容や英文のチェックなどは一度もして下さったことはなかった。

三島先生は敬虔なクリスチャンで,リルケやショパンがお好きな繊細な精神の持ち主であったと思う。三島先生とは,年齢が近いこともあって話が良く会い,一時期,よく一緒にお酒を飲んだ。自宅に戻っていると夜遅く,飲もうと電話がかかってきたこともあった。この時期は助手時代で最も楽しかったと思う。先生はノーベル賞を受賞されたプリゴジン先生とも交流なさっていた。若くしておなくなりになったが,葬儀にはプリゴジン先生からも弔電が届いた。ご冥福をお祈りしたい。

また,別のある年,低エネルギーの核物理を研究されていた岩下彪先生から,人手不足なので,研究の手伝いを依頼された。当時の物理学教室のスタッフは,教授・助教授は9名,助手が3名の構成であった(現在より多い。その後,子供の数の減少→教員需要の減少→学生数の減少→スタッフの減少などの影響を受けてスタッフ数は減ってきた)。教授・助教授は9名いるのに助手は3名しかおらず,研究面では人手不足であった。私は教室共通の助手なので,協力の申し出をお断りできないと考え,数年間,原子核研究の手伝いもした。紀伊半島の熊取にある京大原子炉や茨城の大洗の原子力研究所へ夏休みや冬休みなどを利用して1週間ほど出張し,京大原子炉の線形加速機や原研の原子炉で資料を放射化して放射線を計測したりした。ハフニウムのエネルギー・レベルを明らかにする研究などを2,3年お手伝いした。原研では,お正月の大晦日から元旦にたった一人,暖房のない寒い実験室で計測器の番をして過ごし,寒くて閉口したことも良い思い出だ。

休日にバスで紀伊半島の内陸部へ旅行に行ったこともある。また,春や冬に,休日を利用して岩下先生と美しい紀伊半島の内陸部をバスで旅行できたことは,一生の思い出だ。春の緑が素晴らしかった。また,正月を挟む出張では,正月に十津川温泉に出向いた。1泊することにして,旅館を数件当たったが,正月休みで受け入れてくれない。ついに,ある宿のおかみさんが,私たちの困っているそぶりをみて気の毒に思ったのか,「何もありませんがいいですか」といって泊めて下さった。そこで生まれて初めて鹿の刺身を食べた。今でいうジビエ料理だ。

しかし,原子炉への出張が多く,私自身のプラズマの研究をする時間が無くなってしまい,数年して原子核研究を免除して頂き,またプラズマの研究に戻った。

私はそれまでの研究を「レーザーおよび荷電粒子ビームによるプラズマ加熱」という学位論文にまとめ,1980年に早稲田大学理工学部の加藤鞆一先生に師事し,学位(論文博士)を得た。

また,助手時代には,物理教育の研究として,パソコンシミュレーション,知識構造と学習の研究なども行った。

講師時代

1980年に,物理学教室の講師に昇任させていただいた。

1981年11月から1年間,文部省より,ユネスコのコロンボプラン(戦後補償)による理科教育改善活動のため,タイ国に派遣された。これは以前から東学大の先生方が,引き継いで支援していた。佐藤先生→鳥塚先生→下條へとつながった。これはタイ国の国境近くの教員養成大学(6校ほど?)を順番に支援するプロジェクトであった。このエピソードは本ブログの別稿にゆずる(JICA「タイ国理科教育推進協力事業」体験談)。ここでは,主に学部の基礎物理実験室つくり,PCの活用(物理実験の英文マニュアルつくりや入試ソフト開発),講演などを行った。この経験が私を大きく変えることになった。この派遣により,私は理科教育の大切さを実感することになったからだ。

私は物理学教室の推薦を受けて,1984年に,物理学教室から理科教育教室へ移籍した。記憶に定かではないが,鳥塚先生の後任だったかもしれない。移籍の事情は別稿にゆずる(本ブログ:■東学大の教員時代>「物理学から理科教育学への転身」)。

当初は,理科教育へ移籍しても,物理学にまだ未練もあり,物理学と理科教育の両方の研究ができると思っていた。しかし,実際に移籍してみると,物理学の研究はしたいが,理科教育の研究や教育で精一杯で時間がない。移籍後も,物理学教室と理科教育教室の学部と修士課程の両方の講義を沢山受け持っていたためである(一時期は,週に100分授業を10数枠持っていてこともあったと思う)。当時,文部省の教員の負担の調査(だったと思う)があり,その結果,「ある教員に過大な負担をかけているのを是正すべき」という勧告もあった。当時の学部長(古谷先生)は,これは誰のことだろうといぶかっておられたが,私は自分のことではないかと思った。

結局のところ,研究どころではなく,どちらもだめになると思い,移籍して数年後,物理はあきらめて理科教育に全力をあげることにした。未練をたちきるのに苦労した。

この両方の教室の掛け持ちの事情については,別稿(本ブログ■東学大教員時代>「東学大の理科教育学教室-創生期の苦しみ」)の中にも書いたが,理科教育学教室がつくられた頃,「理科教育学教室は物理・化学・生物・地学の教室ともできるだけ連携しながら発展すべき」という理念があって,そのため,理科教育学教室の教員(理科教育学の中でも,物理・化学・生物・地学を基盤としている教員)は,できるだけ物理・化学・生物・地学の授業も受け持つことが望まれていたためである。小生もつらかったが,同様になさっていた先輩の鳥塚先生のご苦労も偲びながら,この理念に従っていたのだ。

しかし,この理念は,小生が移籍して数年後,代議員会で「一人の教員が複数の教室に所属するのはまずい(特に修士課程の授業に対して)」という議決がなされて,修士課程の授業については無に帰することになった(卒業研究を含む学部の授業については,この限りではなかった)。「縦割りの弊害だなあ」とも思ったが,過度な授業負担から解放されることになったのは,うれしいことであった。また私自身,理科教育の深化が必要という思いも強かったため,理科教育に集中することができるようになった。物理学教室の学部の授業は次第に減らして頂き,数年のうちに全て無くすことができた。

この頃,理科教育教室の主任の降旗先生が日本理科教育学会の会長をされていた関係で,私は同学会の事務長を仰せつかっていた。ある年,一人で米国へ出張することがあったが,ある体験をした。理科教育の資料を購入するため,ワシントンDCにある米国科学振興協会AAAS(American Association for the Advancement of Science)を訪問した。 そこは,数階建て(6階建て位だったと思う)の大きなビルで大勢のスタッフが働いている。米国内の全学会のまとめもやっているようだ(科学研究費配分も)。博士号をもつ女性の事務局員の方がでてきて対応してくださった。当時,私は,学会の事務長として,一時は当学会が編集に携わっていた理科教育雑誌の配送業務までやっていたので,米国の学会との落差(大きさ,活動内容など)に唖然としたことを覚えている。

助教授時代

1983年に助教授に昇任させて頂いた。理科教育の深化に全力をあげる。物理学教室から授業担当の依頼は無くなったが,学生の卒研指導の要請や,教育情報学科への協力(「教材構造論」「教材開発論」などを担当)もあって,大変多忙であった。

後藤先生が尽力された博士課程がやっとできた。私も担当になった。博士課程ができる前,入学者選抜の方法を検討する委員会の委員で,入試のデータ処理も大きな負担であった。数年間にわたって,主に夏休み期間中に毎日,コンピュータのプログラムの開発や修正に追われた。毎年の夏休みは,まとまって確保できる貴重な研究時間であったが,この業務で数年間,丸丸つぶれてしまった。大学教員には,もっと創造的な仕事をさせるべきではないかと思ったものだ。

1985年,文部省から,ユネスコ理科教育巡回講師団(パキスタン)顧問を依頼され,オーストラリアのDale博士とともにパキスタンへ出かけた。私にとって初めてのイスラム国であった。この時の様子は本ブログの別稿(ユネスコ「パキスタン理科教育巡回講師団」に参加して)にゆずる。人々はアルコールをたしなまず,コーランを信じて精神的な生活を送っているように思われた。

1992年に中華人民共和国華東師範大学(上海)を訪問した(同大学教育情報学部招待)。講演・意見交換などを行った。数年前から何度もお誘いを受けていたが,多忙でのびのびにしていたのであるが,これ以上伸ばせないと思って要請に応じることにした。私の教育工学の「概念マップ」(知識構造)の研究が,他にはない新しいものであるので,それを講義してほしいとのことであった。私はこの研究のすべてを話してきた。この時の様子は本ブログの別稿(サブカテゴリー:国際協力,「華東師範大学訪問記(1993)」)にゆずる。

この際,師範大側の御配慮で,上海の雑技団の公演や蘇州の庭園を見た。この庭園は,奇岩がたくさん置かれてあり,中国人と日本人の美意識の差を垣間見ることができた。また帰路,北京に立ち寄って北京師範大学を訪問した。北京では,休日に自分で万里の長城,古代の王の地下宮殿(明陵の王室の墓地),紫禁城などを見学する機会に恵まれた。万里の長城から西方を望むと,青黒い空の下に茫漠たる砂漠が延々と広がっていた。地下宮殿はそのスケールの大きさはものすごく,しかも建築は精密なので驚いた。この見学で中国文化に対する理解が随分深まったと思う。

 

教授時代

1994年に教授に昇任させて頂いた。

1994年12月~1996年3月まで,文部大臣官房からの依頼で,国際バカロレア課程に関する調査検討グループの物理担当の委員となり,「国際バカロレアInternational Baccalaureate」を研究した。この研究にはかなりエネルギーを注いだ。東京と神戸にあるinternational school も数校訪問して,バカロレアの授業をみたり,世界からきたバカロレアを採用している学校の教師の方々を対象とした研修会も見学し,実際のカリキュラム運用の苦労を目の当たりにした(東京のインターナショナル・スクールで実施)。その後,日本でも,バカロレアが徐々に普及し始めたと思う。物理分野に関しては,東学大の附属高校の生徒に,バカロレアの試験問題を解答してもらう試行も行った。国立教育研究所から,調査研究報告書も刊行された(平成8年)。

1997年4月,私の国際教育協力で最も長期(9年)にわたったJICA(国際協力事業団)のIMSTEP「インドネシア初・中等理数科教育拡充計画」の活動が始まった(その数年前から様々な準備がおこなわれていた。「IMSTEP」は,関係者の間で用いられていた本計画の慣用名Improvement of Mathematics and Science Teacher Education Programの略称である。正式な英文名は,“JICA Technical Cooperation Project for Development of Science and Mathematics Teaching for Primary and Secondary Education in Indonesia”である。)。文部省からの要請もあって,この活動に本格的に取り組むことになった。私はIMSTEPを日本国内から支援する国内委員会の委員長を仰せつかって,以後,何回もインドネシアに出張した。その事情は私のブログの別稿にゆずる(IMSTEP0〜IMSTEPⅥ,IMSTEP補遺Ⅰ,IMSTEP写真集)。あまりにも大きなプロジェクトであったし,資料もきちんとまとめる暇も無かったので散逸してしまい,それらの別稿は今となっては大まかな紹介にとどまっている。

お正月の元旦に研究室へ出向いて仕事をしたこともある。全国的な次世代の先進的なカリキュラム開発研究の科研費申請に追われていたときであったと思う。このとき,帰り際,自然科学棟の前でTV用の撮影らしき活動があった。玄関を出たところで,女優さんの後ろ向きの姿が見えたが,私は考え事をしながら歩いていたので振り返ることはしなかった。お顔を拝見すればよかったと後悔している。

私自身,理科教育の授業や卒研,修論や博論の指導,教育情報学科の授業や卒研,外国人留学生や院生の世話,附属竹早中学校の校長,自然系博士課程の代表,国際教育協力,(財)教科書研究センターからの依頼研究,公的機関の委員など,研究生活全般を通して,圧倒的な時間不足であった(特に教授になってから)。あまりにも多忙で,大げさだが,朝目覚めると寝床で自分が生きているのか死んでいるのかわからないと思うこともあった。会議のために,学大の自然科学研究棟から数分のすぐ前にある図書館へゆく時間さえ,「もったいない」と思うことも多かった。

こうした業務の多忙さの他,慢性腎臓病の進行もあり,他にも個人的な事情も重なり,そのため定年前の1,2年間,「うつ状態」になった時期があったように思う。この間,会議でも発言できなくなり,公的な業務もお断りや欠席が多くなり,また約束の仕事が遅れたりした。海外からのメールに対しても返事を書く気力がなくて大変失礼した。米国物理教育学会から日本で日米合同の大会を開きたいという打診や,ICASEの会長やオーストラリアの研究者から科学技術教育の共同研究の打診などもあったが,体調が悪く全て応じられなかった。多方面の方々にご迷惑をおかけして誠に申し訳なかった。

研究生の学生諸君に対しても指導がおろそかになったと反省している。論文化が可能な内容の修士論文もいくつかあったと思うが,何分に指導時間がなく,論文にまとめさせる指導ができなかったものも多々あった。学生諸君には申し訳なく思っている。

定年後

2008年3月に定年を迎えたが,その後1年間,東学大の特任教授をさせて頂いた。この間に,遅れていた(財)教科書研究センターから依頼されていた「初等中等教育用理科教科書の学習材機能の向上に関する調査研究(理科班)」の報告書作成に研究代表者として取り組み,英国調査もやっと実施できた。

また,国際基督教大学(ICU)から理科教育の非常勤講師を依頼され70歳まで2,3年間務めた。ICUのなかに,「縄文館」という土器を展示してある施設がある。そこには,ICUの創立者の湯浅先生が蒐集されたという大きな縄文土器があるが,それを見て,そのモダーンさに驚かされた。縄文人の燃え上がるような生命の息吹を強く感じたのを覚えている。

独立行政法人国立科学博物館の野依科学奨励賞審査委員会委員も定年前から務めていたが,慢性腎臓病による疲労も激しいので,定年後の2018年春,左腕に人工透析用のシャント設置手術を受けるのを契機に,一切の仕事から離れて療養生活を送ることに決めた。慢性腎臓病生活,透析生活については,別稿にゆずる。

在職中に,やり残した仕事が多々ある。例えば,「カオス力学入門」の続編の執筆,「小学校理科教育法」の改定,「中等理科教育法」の執筆,インドネシアIMSTEPの資料整理,アジア・アフリカへの教育協力,日台間やICASE (International Council of Associations for Science Education)での科学教育交流など,卒論や修論の論文化,科学教育研究の深化など,多くのことができなくて,くやしさが残る。科学教育研究については,私としては,子供がいかに科学的概念を獲得してゆくかについて,認知科学の知見を取り入れた研究を深めたかったが,それもできなかった。また,科学と技術を結びつけた新しいカリキュラムの開発も関心が高かったができなかった。さらに,アジア・アフリカへの国際教育協力についても,新たにいくつかの案件への協力を要請されたが時間不足でお断りした経緯がある。台湾との科学教育協力も2年ほど続けたが,それ以上は継続できなかった。理科教育教室は,少人数できりもりしていて,学部・修士・博士課程の授業負担だけでも週一人10コマ以上あり,出張で一人いなくなると大変になるので,無理なのだ。もっと時間が確保できたなら,これらの研究や仕事ももう少しできたと思うと残念だ。

在職中はあまりにも時間不足であったが,時間ができるようになった定年後も,退職前から患っていた慢性腎臓病が徐徐に悪化し,体力・気力の衰えと視力の減退もあいまって,やり残しの仕事に取り組むことは無理だった。定年後の特任教授をしている時に,米国の方から理科教育の研究に私どもの研究室に留学したいという希望も寄せられたが,すでに定年後であり,体調もすぐれないのでお断りしたこともあった。

こうして定年後,あっという間に十年以上の歳月が過ぎ去った。

今思うに,つくずく,在職中はもっと研究時間が欲しかったと思う(3倍くらい)と同時に,教育の世界は実践から理論までなんと広く深いものであるかという実感に捕らわれる。

2020年3月記