恩師を偲ぶ 後藤捨男先生
後藤捨男先生との出会いが私の一生を決めたように思う。
後藤先生には,学部時代の指導教官と卒業研究,修士課程の指導教官として御指導を受けた。さらに私は助手として御採用頂き,研究面でも御指導を受け,後藤先生には永きにわたりお世話になった。私が博士学位(論文博士)を取得できたのも後藤先生のご指導のお陰である。ご期待に添えなかったことも多々あり,思い出すと申し訳なく思う。
先生は1980(昭和55)年4月に定年退官されたが,長年にわたって,物理学の研究・教育,科学教育の振興等に努められ,また,教師養成 に関して日本の教育界に多くの貢献をなされた。大学運営にも大きく貢献された。先生の業績を簡単にご紹介する。
後藤先生は, 学術分野においては,電磁波理論,素粒子研究,核融合研究 および 科学教育(理科教育)の四領域で顕著な功績を挙げられた。
「電磁波理論」領域においては,線形アンテナの送受信特性に関する理論を発展させ,日本のレーダーの性能向上に多大な貢献をされた。「 素粒子研究」領域においては,中間子の中間結合理論,超多時間理論・くりこみ理論,弱い相互作用に関する研究を行った。特に,超多時間理論・くりこみ理論についての研究は,ノーベル賞受賞者故朝永振一郎博士との共同研究であり,中間子に関する相対論的共変形式に関する世界初の論文としてノーベル賞受賞の基礎となった。「核融合研究」領域においては,レーザーや荷電粒子ビームを用いる慣性核融合の理論研究を昭和43年頃の早期から取り組み,日本の慣性核融合研究の発展を支えた。
「科学教育(理科教育)」領域においては,1975(昭和50)年10月,日本学術振興会並びに米国科学財団(National Science Foundation)の援助によって,小学校理科教師の現職教育に関する日・米合同セミナーを日本側代表者となって開催し(参考文献),日本の理科教師養成の発展に貢献された(写真,このセミナーの米国側代表はH. D. Thier 博士で,素粒子研究の泰斗であったが,教育研究にも熱心な方であった)。また ,昭和47年度より開始された文部省特定研究・科学教育による研究 「幼年期より青年期までの一貫した科学教育カリキユラムの研究」(東学大理科教育研究会)を代表者として指導・遂行し, 更に引続き昭和52年度以降東学大において継続的に実施された「理科・数学に関する初等教育教員の現職教育の研究」を始めとする幾つかの理科教師養成関係の文部省特定研究の糸口をつくり, 指導的な役割を演じられた。
「教師養成」に関しては,先生は,日本教育大学協会大学院等検討委員会委員長を勤め,東京学芸大学及び大阪教育大学以外の教員養成系大学・学部における大学院研究科の新設に寄与する等,高度化する社会に適応できる教師養成制度の発展に努められた。 また,日本教育大学協会委員,文部省教員養成留学生委員会審査委員等も歴任 された。 東学大内にあっては ,先生は,学問的基礎の上に教科教育学を置く近代的なカリキュラム作成の中心となり,教師養成の近代化に努められた。同カリキュラムは,その後東東学大のカリキュラムの基礎となった。また,東学大内に理科教育教室を新設し,理科教師養成に関する東学大の社会に対する責任を明確にされた。 この他 ,東京学芸大学大学院研究科設置に当たり,主要な役割を演じられた。
後藤捨男先生は素粒子論の専門家で,量子電気力学(くり込み理論)でノーベル賞を受賞された朝永振一郎先生の第1番目の助手をお勤めになり,ノーベル賞受賞の対象となった論文の共著者になっている。それらの論文や写真は,筑波大学の朝永記念館に展示されていると聞いている。私が大学院時代にゼミで読んだ量子場の理論の洋書(S. S. Schweber,An Introduction to Relativistic Quantum Field Theory, A Harper International Edition, 1964)にも,それらの論文が参考文献に掲載されていたことを覚えている。
後藤先生は教育にもご熱心であった。先生は,朝永先生に「君は学芸大へ行くのだから,教育にも力を入れるように」というような意味の励ましを頂いたと聞いたことがある。
後藤先生は,昼休みにはいつも助手の私の研究室へ来られて,一緒に食事をしながら教育のあり方など,教育談議に花を咲かせた。その際,朝永先生は落語が好きだったというようなお話も伺ったことがある。
私の院生時代に,先生は第三部(自然系)の部長職へ就任され,多忙になった。もう研究面で先生に御指導頂けなくなると,当時は心配したものだ。
先生は東京学芸大学に赴任されてからは,上に述べたように,学芸大学や日本の科学教育の発展にも大きく貢献されたが,特に二つのことを上げることができる。
一つは学部カリキュラムの改革に取り組まれた。これは当時「後藤カリキュラム」といわれたもので,教員養成における科学のカリキュラムを現代化する大きな変革であり,文部省を始め教育界において高く評価されたものと思う。学部長として東学大の発展に寄与された。
二つ目に,特に熱心に取り組まれた博士課程の設置があった。日本が科学技術立国として発展するためには,まず教育の改革からということで,教育学に関する博士課程設置について努力された。高度な教育研究の必要性を認識なさっておられたと思う。博士課程は諸般の理由で先生の在職中は実現されなかったが,その後,先生方先人の努力が実を結ぶに至り,東京学芸大学連合大学院学校教育学研究科博士課程が設置される運びとなった。私は後藤先生の御意思をついでその発展に全力をつくし,数名の教育学博士を世に排出し,彼らは日本の科学教育を向上すべく科学教育の世界で現在活躍していると思う。このような意味において後藤捨男先生が源流となって努力された動きは,現代にも脈脈と生かされていると思う。
さらに,理科教育教室の設置や日米科学教育セミナーの開催があった。そのProceedingsも発行された。私の助手時代であったが,日米科学教育セミナーでは,私はほぼ1年間,準備のお手伝いをした。後藤先生に頼まれて,米国の研究者とのやりとりの英文の手紙を夜遅くまで,よくタイプしていた。
後藤先生は文部省の依頼で日米科学教育セミナーの前であったと思うが,グループで米国の科学教育も視察されている。
物理学科の学部3年か4年のクラス・ゼミナールでは,先生のご指導のもと,ノーベル章受賞者のアルフェンの宇宙電気力学の本を読んだ。このように今から考えると,ずいぶんと高度な授業をされておられたと思う。
先生は私共の学年の物理学科の学生の指導教官でいらっしゃり,4年生の卒業旅行として,大洗の原子力研究所の見学にも連れていって下さった。そこでは,後藤先生の友人の研究者の方が所内の詳しいご案内をして下さった。
先生は学問に関しては大変厳しい方であった。私は学部4年から先生の研究室に入れて頂いた。すぐに博士課程の学生が読むようなノーベル賞受賞の対象となったシュウィンガーの難しい量子電気力学の論文をいくつか渡され,読めと言われ音を上げたことを覚えている。当時の東学大では,量子力学は4年生から履修(現在は3年生から)であったので,その上の量子電気力学など歯がったなかったわけだ。つまり,先生は学部何年生であるかなどは関係ないように振る舞っておられた。私の卒業研究のテーマは,ニュートリノの安定性であった。
修士課程への進学をお勧め下さったのも後藤先生であった。東学大の修士課程は設置されて2年目であった。院生になったあと,先生は私どもに対し,素粒子論ではなく,エネルギー問題の解決のためにも新しいプラズマ物理学の研究をやれとおっしゃり,私が先生にレーザーにも興味があるといったことがあったのか,ある日,「君はレーザーで何を研究したいのかね」と聞かれ,私は「レーザー光がどのように物質に吸収されるのか研究したい」と答え,それから,レーザーや荷電粒子ビームによる慣性核融合に取り組むことになった。はじめは気体のbreakdown(絶縁破壊)の論文を読むことから始め,その後,プラズマの素過程を量子力学的アプローチで捉える研究に進んだ。修士論文(主論文)は,「プラズマの基礎理論-レーザー光によるプラズモンの励起」であった(副論文は理科教育関係)。レーザー光の逆制動輻射によるプラズマ加熱に関する短い論文がレフリー付きの論文としては私の最初の論文となった(S. Goto, T. Shimojo and T. Okada: Inversebremsstrahlung Process in Plasma Heating,Prog. Theor. Phys. 45(4), 1342-1343 (1971))。論文の掲載がパスになったという湯川秀樹博士の署名入りの通知が私に届いた。
私の助手時代には,先生のご指導のもと,春夏秋冬のプラズマ物理のゼミが何年も続いた。夏休みには,ある時は長野の茅野で,ある時は白根山の麓で,ある時は箱根で,ある時は中軽井沢で,ある時は群馬県の榛名山でというように,涼しいところで研究者仲間の物理学のゼミを行った。ゼミで茅野市にある東学大の生徒用の宿舎を借りたこともあり,枕が硬くて寝むれないと笑っておられたこともあった。
このゼミには,私を含め,東京農工大の岡田利男先生,創価大の齋藤徹也先生,大学院生が参加し,時に東学大の三嶋信彦先生や後にTEXAS大学に行かれたペトロスキーさんなども参加した。そのうち東工大の丹生慶四郎先生の研究室や早稲田大の加藤鞆一先生の研究室とも交流が生まれた。この後藤研のゼミは,慣性核融合の理論研究の拠点の一つを形成していたと思う。後に,ヨーロッパから世界の慣性核融合研究の拠点リストの作成の調査が私のところに来たことがあるが,丁度その頃,後藤先生は退官され,また私も物理学教室から理科教育学教室へ移動になったので,「研究グループは解散した」旨の返事をした。
研究上のエピソードをいくつか紹介したい。
ある時,ビームによって,プラズマの縦波が強く励起されたとして,縦波の非線形相互作用の効果を調べるように言われた。私はウンウン考えて,阻止能に応用し,縦波乱流によって阻止能が短くなるという論文にまとめ,出版費用が安かったイタリアの物理学会誌に提出した(T. Shimojo and T. Saito, Linear-Response Theory for an Impinged Charged Particle in Turbulent Plasma, Nuovo Cimento,56B, 72-86 (1980),イタリア物理学会)。投稿してすぐ,国際会議で話したが,その場でフランスの研究者から共同研究を持ちかけられた。しかし投稿済みということでこの共同研究の話は消えた。論文が出版されたのち,私はこの論文を後藤先生に手渡したら,「ずいぶん時間がかかったな」と言われた。私は怒られたのか褒められたのか,わからなかった。
またある時,後藤先生から,ビームからエネルギーをもらった電子が電子-電子散乱によってプラズマを加熱するプロセスの計算を命じられたことがあった。しかし研究を進めてみると,膨大なspur計算が必要になって,とても1ヶ月後の学会発表間に合わないことがわかった。結局,結果を出せずに中途発表となってしまったが,後藤先生に「朝永研では結果が間に合わなかった場合には,坊主になった」と言われた。私は坊主にならなかったが・・・。
先生は式や論文のcheckは一度もして下さらなかったが,ゼミで私たちの話を聞いて下さり,いろいろなアドバイスをくださった。
先生はこのように研究・教育への熱意が厚く,若い者達(学生や若い研究者)は先生に強く薫陶されました。先生にお世話になった方は何人もおられる。また,先生は高い精神の持ち主であられたのみならず,豪毅な性格であられました。御定年時には,多忙な仕事から解放され,やっと好きな勉強ができると喜んでおられた。先生の厳しくも暖かい御指導に対し,深く感謝申し上げても足りることはない。私は本当に良い師にめぐり合わせたと思う。
先生は御定年後,これまでの業績に鑑みて,勲三等旭日中綬章の受賞の栄誉に輝いておられる。先生は96歳で2012(平成24)年11月に他界された。逝去の際にも,さらに叙勲の栄に浴しておられる。先生の御冥福を心よりお祈り申し上げたい。
【写真】Proceedings表紙
【参考文献】
Japan Society for Promotion of Science and National Science Foundation, U.S.A., U.S.-Japan Joint Seminar, In-Service Training of Elementary School Science Teachers, Kyoto and Tokyo, October 13-17, 1975.
2020年3月記