東学大の理科教育学教室-創生期の苦しみ
東学大の理科教育学教室は,現在では教科教育学を教育・研究する分野の一翼として学内ですっかり定着しているが,発足当初は生みの苦しみがあったと思う。
私が学芸大の物理学助手に採用(1969)されて数年後のことであったと思うが,第三部(現在の自然科学系)に理科教育教室が設置する動きがでてきた。発足当維の状況は,はっきりとは覚えていないが,いろいろなご苦労があったことは確かだ。なお,教室の名称は,以後数回揺れ動いた。最初は理科教育教室だったが,後に理科教育学教室になった。
後藤捨男先生が物理学教室の主任か部長職にお着きで,私が助手の頃に,こうした動きがでてきたと思う。後藤捨男先生と生物学教室主任の古谷庫三先生が,設置について頻繁に相談されていたのを覚えている。
理科教育教室の発足当初は,2,3人のスタッフしかいなかったと思う。その後,物理・化学・生物・地学教室から人員を1人ずつ出して,理科教育教室を充実してゆくことになったと思う。生物学教室からは教室主任であった古谷庫三先生が,物理学教室からは鳥塚一男先生が移られた。古谷先生は,率先して理科教育教室の主任もお勤めになった。両先生とも,生物学教室や物理学教室の授業や研究を兼任されていて,毎日両教室の授業でびっしりであったと思う。理科教育教室ができて数年後,鳥塚先生のご定年があった。
理科教育学教室は,教育現場と科学を結びつける教育・研究を担当する。教員養成上,免許基準になっている小学校理科教育法(全学生対象)や中等理科教育法(全理科生対象)を負担するほか,理科教育関係の各種授業科目,卒業研究,修士課程指導などがある。教室の規模(教員数)は物理・化学・生物・地学の半数以下である。
理科教育学教室は,他の教室の半分以下だ。しかし,教育・研究領域も物理・化学・生物・地学各領域のみならず,子供がいかに自然を認識してゆくかという認知研究や各領域の情報化対応,各領域を包含するより広い立場からのカリキュラム研究など,欲しい人材は他教室と同じで,小さい教室で済むわけはない。現実は,一人の研究者が,いくつかの領域を複合的にカバーしている。
こうしたことから,理科教育教室には,本来ならばいろいろな人物がいなければならないことがわかる。科学とつながっている人,心理学につながっている人,指導法に強い人,教育工学に強い人などである。もちろん,教育現場に強い人物は絶対に必要であることは言を俟たない。また,カリキュラム開発研究も視野に入れるなどの場合,スタッフには深い自然科学の素養が求められる。このように,本来は大きな教室であるべきであるが,人的余裕がない。
理科教育のこうした面を鳥塚先生はよくご承知だったと思う。鳥塚先生は,在職中,理科教育が大事であり,さらに拡充する必要性があることを第三部(現在の自然科学系)内で必死に訴えておられた。しかし,実現はむずかしかったようだ。
よく覚えていないが,鳥塚先生の後任人事だったと思われるが,私が物理学教室から推薦されて理科教育教室に移籍することになった。1985年,私が助教授の時で42歳のときであった。
当時は,第三部は,理科分野として物化生地の各専門の教室と新設の理科教育教室,数学分野は数学教室と数学教育教室があったと思う。理科分野では,物理・化学・生物・地学の各教室と理科教育教室が密接に関連しながら発展させるというポリシーがあり,この考えは人事面でも適用された。科学と教育の有機的な連携を持つべきとし,教員は物化生地の教室からも移籍があったのだ。もちろん,理科教育教室は,初等理科教育のみならず中等理科教育も視野に入れなければならないが前者のウェイトが大きい。したがって教育現場,特に小学校教育の現場に強い教員もスタッフもいた。
私は,理科教育教室に移籍後,理科教育教室創生のポリシーに従って,理科教育教室の仕事のみならず,物理学教室の授業や卒研指導,両方の教室の修士の学生の指導も若干担当を続けており,鳥塚先生同様,加重な授業負担に辟易していた。これは,物理科の学生で理科教育研究を希望する者が存在したためである。
しかし,私が移籍後数年して,代議員会における修士課程の開設授業枠の認定か何かの際に,私が物理と理科教育の両方の授業を担当していることはおかしいという意見が出て,両方の担当はだめになった。そもそも,こうした形態になったいきさつは,上に述べたように,物理・化学・生物・地学教室と理科教育教室の連携を強めて,理教自体の研究・教育態勢を強化するために,人事面で配慮したものであった。しかし,部長や代議員の人が代わり,こうした理想も引き継がれなくなってゆく。組織の在り方はむずかしい。分断がきつすぎると,こうした理想も潰える。私は,加重な授業負担から若干でも解放される分,ありがたいと思う半面,日本人はどうしてこう縦割りが好きなのだろうと思ったものだ。
私個人としては,時間不足のゆえに,このままでは理科教育の教育・研究も物理学の教育・研究もどちらも駄目になると思い,物理学研究にも未練を感じていたが,移籍から2年位たったこの機会に研究・教育を理科教育に一本化し,その構造化や深化を目指して頑張ることにした。
大学として「有意な教育者の育成・・・」が目的であっても,個々の教員は,組織のコマとして,自分の研究領域の研究の進展ばかりしか考えない場合も多い。大部分の学生は教職志向なので,時として科学の研究を重視する教員と意識のズレが生じることもある。このような先生方は,理科教育軽視の雰囲気を醸し出していたように思う。こうした雰囲気は,「理科教育を大切だと思わない」という考え方をする一部の大学教員のもとへ卒業研究や修士論文の研究で研究室に配属された指導学生にも影響することを見てきたので,私は,このギャップを埋めたいと思った。
幾人かの部長先生は理科教育教室を大切なものとして,当教室を人事の草刈り場にしてはいけないと大事にして下さった。しかし,せっかく先達が苦労なさってつくった理科教育教室であるが,その恩師の先生方が退職後,数年して第三部内に解体の動きがでてきた。理科教育教室所属の教員を物理・化学・生物・地学各教室に戻して,理科教育教室をなくすという話だ。この動きは,理科教育教室を作った先輩の先生方が,理科教育教室の人員をさらに増やして理科教育の研究・教育をさらに充実する必要があると訴えていたのとは対照的だ。私はむなしくなった。どうしてこのような動きがでてくるのであろうか?
私の推測するところでは,教員の一部の方が次のように考えていることに原因があるのではないかと思う。
ア)「教育がわからない・関心がない」だから「理科教育はいらない」と考えておられる。
意識的にそうされているのではなく,「教育のことは知らない・分からない→知らない・分からないことは不要と思って無視する」という図式のように思う。
イ)科学プロパーの実力をつけることが,優れた教師を育てるとの強い信念をもっておられる。
確かにそうした側面はあるが,これは単純すぎる。これは優れた教師を育てる必要条件ではあるが,十分条件とはいえない。教師には科学の知識・技能とともに理科の学習指導上の知識・技能が求められる。例えば,小学校理科の場合には,児童の思考の特性や知能の発達,学習論,学習評価の方法,児童にあった教材の開発や活用能力,視聴覚機材の活用法等,きわめて理科教育的な側面の把握が必要である(参考:東京学芸大学理科教育検討会編「小学校理科教育法」,学術図書出版社,2002の第8章 小学校教師の理科指導力の向上。この部分は,199年に実施した2000名強の現職小学校教師に対するアンケート調査に基づいている)
ウ)学芸大の教師養成という社会的な責務をあまり自覚しておられない。
エ)物理・化学・生物・地学の教室の規模を小さくしたくないという希望をお持ちである。
自然科学は広いので,教員養成の単科大学ゆえに,どの教室も専門領域を一部しか充足できないという悩みを抱えている。このことは,理科教育学教室も同様の悩みを抱えている。
もちろん学大の大部分の大学教員の方々はこうではないし,こうした無理解の方々も時と共にお分かりいただけるようになるが・・・.
理科教育学教室のスタッフを各教室に戻すという上記のような動きは,物理・化学・生物・地学各教室内に,物理教育,化学教育,生物教育,地学教育の柱が確立されれば可能かもしれないが,それでも小学校教員養成課程の学生に対しては,依然として,物理・化学・生物・地学教育よりも広い立場から科学と教育現場を結びつける教育・研究(教科教育)のために,理科教育学教室は必要となる。ちなみに,私が物理学教室にいた頃は,原子核物理,固体物理,プラズマ物理,素粒子物理の他に,物理教育が教室の柱として加えられていたが,その後どうなっているかは不明だ。各専門家が自分の領域の科学研究ばかりでなく,少しずつでもより実践に係わる教育に関与すれば大学としては,理科教育・科学教育において,ものすごい力を発揮すると思う。
この理科教育教室の解散話に,私は誘惑に負けそうになったが,第三部の主任会議でこれが議論されたとき反対した。この案であると,物理・化学・生物・地学教室所属の教育にも意識の高い教員が退官したのち,責任を持って理科教育に取り組もうとする人物が採用できるかわからないという恐れがあり,もしそうなると,長い間には学芸大において,理科教育を研究・推進する機能が薄れてしまうからである。それは学芸大の社会的責任の放棄に他ならない。また,学芸大におけるこの組織変更は全国の教員養成系の大学にも大きな影響を与えるであろうし,そうなると海外では積極的に研究されているこの教科教育分野が日本において絶滅してしまう恐れもあると思ったからだ。
この動きは幸いその後消失した。結果として,理科教育教室は存続できたが,無理解と無視との戦いはその後もずっと続いたように思う。私は,こうしたことには気に留めないようにして,理科教育の深化を目指した。それは,欧米先進国では,理科教育について,実践的な研究のみならず,理科教育の本質をさぐる哲学的な深い研究なども多彩になされているし,学術雑誌も多く刊行されていることを知ったからでもある。また,理科教育・科学教育を熱心に研究されていた日本科学教育学会の諸兄には,ずいぶんと元気づけられた。
無理解と無視の雰囲気は1996年に学校教育専攻の連合大学院博士課程ができてから,変わってきたと思う。
2020年3月記