物理学から理科教育学への転進 

私は1980年に東京学芸大学の物理学教室の助手から講師に昇任させていただいたが,1984年に同大の理科教育教室に移籍した。私はなぜ物理学から理科教育学へ転身することになったのか。このことに関して,在職中,広島大にいらしていたフィリッピンの大学のMagno先生の訪問を受けて,表題のことの調査を受けたこともある。

このことを語ろうとする時,当時学大の物理学教室におられた後藤捨男先生と鳥塚一男先生に触れないわけにはいかない。両先生との出会いが私の移籍を主としてバックアップしたといえる。特に後藤捨男先生のことは,別のプログ「恩師を偲ぶ-後藤捨男先生」に記すことする。

学大の理科教育教室創設に大きく貢献された先生は,私の知る限り,この両先生と古谷庫三先生であると思う。古谷先生は生物科所属で生物科の主任もお勤めになった先生で,後藤先生とよく話しておられた。古谷先生は生物学教室から理科教育教室へ自ら移籍された(授業は生物科の授業ももった。この事情は鳥塚先生と同じ)。確か,後藤先生が学部主事(学部長)になられた後に学部主事になられた。

記憶も薄れているが,当時は学大にやっと理科教育教室ができて数年経過したばかりで理科教育教室の黎明期であったと思う。この時期の創生期特有の苦しみについては別記する。

そうした黎明期を私は院生や助手としてみてきた。

私が移籍した理由をあげると,いくつかある。

第一に鳥塚先生の一言があった。

鳥塚先生は,物理学は核磁気共鳴や質量分析,プラズマなど幅広く御研究されていた。南極観測隊が南極の弱い磁気を精密に測定するために鳥塚先生の作製した核磁気共鳴を利用した磁力計(プロトン磁力計)を持参したと,先生のご退官時の記念講演の時に初めて伺った。先生は昭和37年に「プロトン磁力計の試作」で,東京文理科大学記念賞を受賞されている。御定年時には叙勲の栄に浴しておられる。

鳥塚先生は,物理と理科教育の掛け持ちをされていて,授業だらけだった。月曜日から金曜日まで,毎日3~4枠(当時は1枠100分であったと思う)も授業があって,これに会議が頻繁に入るのであるから研究もできないし,疲労も大きかっただろうと思う。別稿「東京学芸大学の理科教育学教室-創生期の苦しみ」に書いたが,今でこそ週何時間と授業負担の上限が決められていると思うが(例えば学部の授業は週6枠とか。大学院の授業枠は別),当時はそんなものはなく,善意で行っていたのだ。それには理由がある。当時,理科教育教室は,できてまもなくの黎明期であり,その教官は,物化生地の各教室と強い連携をもつことが望ましいという第三部(現在の自然科学系)理科全体の意見があり,そのために,物理学教室からは鳥塚先生が理教の授業も担当されたのだ。また,理科教育教室を造ったが,同教室専任の新たな教員枠を確保することがかなわなったため,物理・化学・生物・地学の教室から理科教育を支援する人材を出す必要もあったのであると思う。

古谷先生は,理科教育教室の在り方について,「科学研究を行って,科学とはどのようなものかをよく知る人物が理科教育の担当になるべきだ」というお考えをお持ちであった。このため,物化生地の各専門の教室と理科教育教室が密接に関連しながら発展させるというポリシーがあった。この考えは人事面でも適用された。確かに,理科教育教室の構成についてはいろいろな考え方があり,現場に強い人物も必要であるし,各大学の事情にもよると思う。

私は物理学教室の助手として物理学実験の授業のお手伝いをしていたのであるが,あるとき,鳥塚先生の授業のお手伝いのことで,先生の時間表を見て驚いた。ほとんど毎日,授業でほとんど埋まっていたのである。「先生,これでは研究する時間はありませんね」と私が言うと,「君たち,若い人が頑張らないのがいけないのだ」と一喝された。もちろん,理科教育でがんばらなければならないという意味である。私は,この先生の一言に,学大出身なのに,まだ理科教育を研究しておらず,先生がこんなにもご苦労なさっていることに気づかなかったことに,自分がはずかしくなったことを覚えている。この一言が,将来,物理から理教へと移籍するという運命を決定づけたのだと思う。また,鳥塚先生の誠意に満ちたお人柄には深く感銘を受けた。

第二に1年間のタイ国への教育協力の経験があった。私は,1981年11月から1年間,ユネスコのコロンボ゙計画タイ国理科教育改善事業の派遣専門家としてタイ国へ派遣された。コロンボ・プランは日本の戦後補償として実施されたもので,タイ国政府から日本政府へ理科教育改善の要請に応えるものであった。私が同国へ赴任する数年前から,学大の物理学教室から,毎年,数ケ月程度,文部省からタイ国の国境周辺にあるいくつかの教員養成大学へ順番に派遣されていた。

ある年,私は鳥塚先生から,「タイ国へ行ってみませんか」と言われた。私はちょうど,博士学位(論文博士)を取得する1年くらい前だったと思う。学位取得の準備で忙しく,取得まで待っていただいた。その年は,鳥塚先生がご自身でタイ国へゆかれた。そして,その翌年,私が行く番になった。これが別記するが,理科教育への移籍の第二の原因になったと思う。なぜなら,この経験が,理科教育がいかに大事か身をもって体験することになったからである。例えば,赴任したチャンタブリ教員養成大学(現在は,ランパイパニ大学)の理科教育教室には基礎実験の器材はほとんど無く,基礎実験はやっていなかった。大学教員が基礎実験の大切さをわかっていない。周辺の教員養成大学でも似た状況にあった。私は現地で基礎物理実験室つくりに励み,実験器具をいろいろ作った。また,学生は測定で平均値をとろうとしない。平均をとる操作が習慣になっていない。測定時につまみを急にまわしたりする。つまり科学的態度が身についていない。日本の子供はこうではないだろう。この点,日本の教育のすばらしさを感じる。こうした美点が失われないようにしてほしいと思う。日本の子供たちも平均値の統計的な意味(最確値)はもちろんわかっていない。これは,大学で誤差論を学ばねばわからない。私は助手時代,物理基礎実験の初めには必ず誤差論を講義した。しかし,日本では小学生のころから,学校で物の長さなど何か測るときは数回はかり,平均をとるということを何回も指導されて,習慣化していると思う。タイ国でこうした経験をして,「理科教育は大切だな」と強く思うようになった。そうした経験が私をより理科教育を考えるようにさせた。タイ国における活動の簡単な紹介やタイでの生活の実際やエピソードは別稿にゆずる。

第三に日米科学教育セミナーのお手伝いがあった。これは私のタイ国赴任より前であるが,後藤捨男先生が代表になり,小学校教師の現職教育に関する「日米科学教育セミナー」を日本で開催した。学大はセミナー会場の一つであった。このセミナーは,当時の日本学術会議や全米科学財団NFS(National Science Foundation)の支援をうけたものであった(参考文献)。日本の当時の学術会議会長の茅誠二先生のバックアップがあったと聞いている。このセミナーのproceedingsも刊行された。私は,1年間ほど,このセミナーのための連絡などでタイプ打ちなど,お手伝いをさせて頂いたが,セミナーには参加しなかった。しかしこの経験から,世界各国が理科教育に熱心であることを知った。

第四に,文部省特定研究への参加があった。文部省特定研究とは,当時,文部省指定で科学教育・理科教育の教員養成に係わる研究が指定されていた。学大の物化生地教室の有志教員で研究に当たった。この事情は,別のブログ「恩師を偲ぶ 後藤捨男先生」に書いた。

私は物理学教室所属の助手であったが,鳥塚先生から,時々この会議に参加するように言われた。これが私の理科教育への視野を広げた。これは,何年も続いた。報告書も数冊刊行され,私も少し書かせてもらった。この特定研究は,第三部全体の教員の教育への意識を高めたと思うが,今は無い。

以上が私が物理学から理科教育学へ転進した主な理由であるが,そのほかにも,プラズマで共同研究を行っていた創価大学の斎藤徹也先生(相対論的電子ビームの研究)からも,ある時の研究会の休憩時に,理科教育をやってみたらと激励を受けたこともある。この一言も大きかった。

このように,私はもともと教育には強い興味や関心もあったが,今から考えると,移籍を決断した背景には,いくつもの事柄が関与していて運命的なものを感ずる。

移籍に当たり,物理学研究も継続するつもりでいたが,圧倒的な時間不足により,次第にできなくなってしまった。物理学の授業負担,理科教育の授業負担,修士課程の授業も両方,タイ国赴任の教員の物理学の授業の肩代わり,そのうち,教育情報学科の授業負担(教材構造論・開発論など)も出てきてどうしようもなく,これでは,物理学も理科教育もどちらもダメになると思った。この事情は,別のブログ「東学大の理科教育学教室-創生期の苦しみ」の中に書いた。

物理学の研究が不可能になったことは,自分自身,残念なことであった。しかし,人の一生で,最も大切なことの一つに,「人間の能力を開発する教育」があると思っていたので(今でもそう思っている),移籍したことに悔いは無い。ただ,物理学の学位(論文博士)を出してくださった早稲田大学では,ずっと物理学研究の継続を私に期待して下さっていたので,申し訳なく思っている。また,駆け出しのころ,また理論グループの科研費研究の一員に加えて下さったプラズマ研究所の故矢嶋信男先生にも,途中で脱落することになり,申し訳なく思っている。同先生は,ご病気で若く他界されました。ご冥福をお祈り致します。

【参考文献】

Japan Society for Promotion of Science and National Science Foundation, U.S.A., U.S.-Japan Joint Seminar, In-Service Training of Elementary School Science Teachers, Kyoto and Tokyo, October 13-17, 1975.

2020年3月