Ⅰ. プロジェクトの概要と始まり(略語表,地図,年表)
1. プロジェクト概要
本プロジェクト「インドネシア共和国初等中等理数科教育拡充計画」は,インドネシア共和国(The Republic of Indonesia, 以下,イ国)政府から日本政府への要請に基づいて,日本側は外務省,文部科学省(本計画の途中で文部省から文部科学省に改名),JICA(国際協力事業団)が連携しながら実施されたものである。実際の運営は JICA が担当した。
このプロジェクトの正式な英語名は,“JICA Technical Cooperation Project for Development of Science and Mathematics Teaching for Primary and Secondary Education in Indonesia”である。この英語名は長いので,関係者の間では,日常用いる慣用名として,IMSTEP(Improvement of Mathematics and Science Teacher Education Program)が用いられた。正式名と略称では,多少のニュアンスの差があるが,略称の方が内容をより具体的に示している。というのは,この計画の本質は理数科の学校教育改善を含む理数科教員の教師教育であったからである。この略称は初代のチーフ・アドバイザーであった神沢淳氏が中心になってお作りになったのだと思う。
このプロジェクトは,JICA のプロジェクト方式技術協力のスキームに従って実施され,1998(平成 10)年に開始し,2003(平成15)年に終了したが,開始に先立って,1995(平成7)年4/2~4/19 にプロジェクト形成調査団,同年 11/29~12/6 に基礎調査団,1997(平成 9)年4月に事前調査団,1998(平成 10)年3月に長期調査団,同年 7月に実施協議調査団がイ国に派遣されており,準備に 4年費やされた。その後 1998年10月から 2003年9 月末まで5年にわたるプロジェクトが実施され,また IMSTEP 終了後はそのフォロウアップ・プログラムが2003年10月から2005年9 月末まで2年間実施された。すなわち,IMSTEPは,その実施に先立つ 1995年のプロジェクト形成調査団派遣から,2005年のフォロウアップ・プログラム終了まで,11 年にわたって行われた活動であった(さらに,プロジェクト形成調査団派遣に先立つ文部省内の検討を加えると 12 年位にわたるであろう)。なお筆者は,1997 年の事前調査からIMSTEPおよびそのフォロウアップ・プログラム終了まで9 年にわたり参加し,理科教育等や学部運営の専門家としても幾度もイ国に派遣された。 なお, IMSTEPにおいては,日本国内においてIMSTEPを支援する国内委員会の委員長を務めた。
教育に関する途上国支援では,学校建設などの支援はよく知られていると思う。しかし,本プロジェクトのイ国側からの要請はこれとは質的に異なり,理数科教育やその教員養成のレベル・アップへの協力が主の実に包括的な大きなものであった。
IMSTEP は,インドネシアの主に中高等学校の理数科教育の改善をめざして,ジャワ島内の3つの教育大学やまわりの学校をまきこんだ,教師教育改善および学校教育の改善プログラムであった。また,バンドンにあるインドネシア教育大学の理数科棟建設を含む政府の無償資金協力と合体して実施されたため,両者を合わせた予算規模も大きかった。IMSTEP の前半は供与機材の投入,理数科教員養成の基盤整備が,後半は3大学教員が学校と組んで授業研究を行うパイロティング活動が主であった。全期間を通じて機材供与,日本人専門家の派遣,イ国3大学教員の日本研修があった。
JICA のこのような国際教育協力は,IMSTEP に先行して,フィリピンでも既に1994 年6月から,フィリピン大学 UP-ISMED(University of the Philippines-Institute for Science and Mathematics Education Development)を実施機関とし,STTC(Science Teacher Training Center)を拠点とした「フィリピン理数科教師訓練センタープロジェクト」(Science and Mathematics Education Manpower Development Project: SMEMDP)において,理数科教員教育を内容としたプロジェクト技術協力が開始されていたが(1994~1999) (日浦 2000),IMSTEPの方がより総合的で大きかったと思う。
プロジェクトの概要や立ち上げ時の様子については,講演のほか,本,報告書,論文などで紹介したが,主なものを本章の末尾に参考文献としてあげておく(下條 2000a,下條 1999,下條 2000b,下條 2001,下條 2002,下條 2003)。特に,このプロジェクトがどのような理念に基づいてなされたかについては,参考文献(下條 1999)を参照されたい(この文献はネットで公開されている-「下條隆嗣」で検索するとでてくる)。なお,イ国3大学から出版されたイ国語の報告書も多数あるが,それらは参考文献には揚げていない。
以下で用いる主な略語の表をここに掲載する。
2.インドネシアとは
まず,簡単にインドネシアについて説明しておきたい。インドネシアは,1945 年 8 月に独立を宣言し,1949 年に連邦共和国として独立した。1950 年 8 月に単一共和国として独立を達成した。IMSTEP の活動を開始した当時のインドネシアの人口は約2億人であった。ジャワ島の西のジャカルタに首都をおいていた。
インドネシアではイスラム教徒が多いが,インドネシアのイスラム教徒は他宗教と共存して穏健であるとされている。人々は 1 日に5回の礼拝をおこなう。町中にスピーカーでコーランが響く。
地理的には,赤道が通る国で,緯度はフィリッピンとオーストラリアの間,マレーシア,タイの南に位置する。火山で出来た国で,富士山そっくりの形をした火山(スメール山)もある。3000m級の高山もある。ボルネオには 5000m級の山もある。またインドネシアは島嶼も多い。大小の島が約 13500 もある。
国土の広さは日本の何倍もある。東西はアメリカ合衆国よりも大きい。ジャカルタのホテルで朝食を摂る際,テーブルの上にインドネシアの地図が印刷された紙の敷物があった。それにアメリカ合州国の輪郭も重ねて印刷されていたが,東西はインドネシアの方が少し大きかったと思う。すごい国だなあと思う。資源も豊富で,石油や天然ガスが取れる。日本の家のガス・コンロのガスはインドネシア産であるという話も伺ったことがある。こうした点から,インドネシアはアジアの大国といえる。
首都のジャカルタには,日本車が沢山走っている。日本との経済的な結びつきも多いようだ。また, 周知のように,インドネシアは戦前から日本との関係も深かった。私もジョグジャカルタで元日本 兵の方とお会いしたことがあった。文化は,世界遺産の仏教遺跡ボロブドールや,ヒンズー教の世 界遺産プランバナンなどが有名である。
インドネシアは科学史上もおもしろい。ジャワ島の東に位置するバリ島とロンボク島の間のロンボク海峡には,生物の分布境界線であるウォレス線が通っている。この海峡は潮の流れが激しいので,海峡をはさんで動物の移動が困難で,海峡の東西で動物が独自の進化を遂げたようだ。これはダーウィンに先駆けてウォレスが見出し,進化論の端緒となった。例えば,この線の東西ではゴクラクチョウの羽の色が異なる。事前調査の時であったと思うが,休日に下澤隆先生らとジャカルタにある動物園を訪ねたことがある。そこで,ウォレス線の東西で捕獲した羽の色の異なるゴクラクチョウをみて感激したことがあった。
インドネシアでは,日本や各国の国際協力はいろいろと走っている。JICA の様々な国際協力事業も実施されていた。学校建設などの教育関係の他にも,例えば,母子手帳の普及,乳牛の改良,観光事業の開発などの協力が実施されていた。米国の初等教育改善プロジェクトもあった。IMSTEP はそれと活動が重複しないように,中等教育を主としたいと高等教育総局長のサトリオ博士から要望があった。
インドネシアの高校生が,以前,世界物理オリンピックで金賞を取ったこともあった。インドネシアのスラバや工業大学は,日本人の指導によって日本で行ったロボコンで数年前1位になったこともあった。どんな国でもすごい人間がいるものである。しかし,IMSTEP は,中等理数科教育の全体的底上げを目指したものであった。
3.IMSTEP の活動の場(地図)
本プロジェクトでは,イ国における 国立の10 教育大学(IKIP,institutes)の内,ジャワ島の西・中・東部に位置する3つの代表的な教育大学であるバンドン教育大学(IKIP バンドン),ジョグジャカルタ教育大学(IKIP ジョグジャカルタ),マラン教育大学(IKIP マラン)における理数教育学部が実施機関として選ばれた。これらの教育大学は,1999 年 8 月に改名されて,それぞれインドネシア教育大学(UPI),ジョグジャカルタ国立大学(UNY),マラン国立大学(UM)という大学(universities)になった。後2者の大学の従来から存在した理数教育学部は,インドネシア教育大学を除いて理数学部と改名されたが,この学部名の改名の有無にかかわらず,それらはイ国における教員養成の中核的存在であり,中等教育に重点が置かれた数学・理科分野における教員養成および現職教員教育を目的にしている。
注) 本章の参考文献に掲げてある筆者が以前執筆した論文等においては,ジョグジャカルタ国立大学,マラン国立大学は,それぞれ州立大学としていた。これは,筆者がイ国に滞在中に,当国で進められていた教育の分権化の動きがあり,これらの大学も国立から州立に変更する旨の話を聞いたためであった。しかし,その後,この件は立ち消えとなり。これらの大学は,以前の通り国立として維持されることになった。ここに訂正させて頂き,誤りをお詫び申し上げる。
IMSTEP の事務局はバンドンにあるインドネシア教育大学内に置かれた。ここに,日本人のチーフ・アドバイザー(初代は神沢淳氏)や業務調整員(初代は比嘉京治氏)が常駐して業務の進捗に当たり,またIKIP バンドンに派遣された短期派遣専門家もここを拠点に活動した。イ国側からはカウンターパートがこの事務局によくいらしていた。ジョグジャカルタ州立大学やマラン州立大学内にも同様な事務所が設置されていたが,インドネシア教育大学内の IMSTEP 事務所が本拠地であった。
バンドンは標高が高いので比較的涼しく,夏の避暑地として知られている。有名なバンドン工科大学がある。またバンドンは,第1回のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)が 1955 年に開かれた場所としても有名である。その会議を開いた歴史的建物が残っていて,筆者も見学した。
ジョグジャカルタは,首都のジャカルタと違って緑多きゆったりした,文化の香り高き古都で王宮跡もある。有名な世界遺産の仏教遺跡ボロブドールや同じく世界遺産のヒンズー教遺跡プランバナンがある。また時々噴火する火山も有名である。プランバナン遺跡の近くで夜の漆黒の闇の中,仮面をつけた踊り子が松明の明かりの中で演ずるラーマーヤナの舞踏劇はすばらしく,神話の世界に引きずり込まれるようだ。
マランは,オランダ軍が駐留していたところで,西部の港町スラバヤから,高速道路で2時間程度のところにある。マランの街の主要な道路には美しいヤシの木の並木がある。
バンドンは,東部と言っても首都のジャカルタからはかなり遠い。鉄道の急行で 2~3 時間かかったと思う。バンドン-ジョグジャカルタ間は,鉄道の急行でも 3 時間位かかったと思う。ジョグジャカルタ-スラバヤ間も急行で3,4時間であったと思う。スラバヤはバンドンから飛行機で1時間半くらいだったと思う。
プロジェクト実施機関はインドネシアのジャワ島島内にあったが,ジャワ島は,広大なインドネシアの国土の一部に過ぎない。図Ⅰ-1 に実施機関の位置を示す。
4.プロジェクト要請とその背景
1994(平成6)年11月に,文部省学術国際局国際企画課教育文化交流室長から,国立大学国際協力担当部長宛てに,「平成 7 年度プロジェクト方式技術協力要請案件検討依頼について(照会)」が届いた。その文書には,パキスタンやインドネシアなどからの要請が書かれていた。インドネシアに関しては,文化,農業,公衆衛生,郵便,通商,建設など,広範な分野にわたり,22 項目の要請が書かれていた。その中で,”Basic Science and Mathematics Teachers Development for Primary and Secondary Education at LPTK/IKIP”がトップにあげられていた。ここで,LPTK は,教員研修所,IKIP は教員養成大学(後に改名)である。
それによると,インドネシアは,第二次長期国家開発計画(the Second Long-term National Development Plan (PJP-II)における基礎教育に関して次の3点
- 2008 年までに,9年間の義務基礎教育を完遂する,
- 2015 年までに,初等教員は D2,中等教員は S1 まで資格を上げる,
- 国内からインドネシア語と生活上の基礎知識の illiteracy をなくす,
を目標に据えていた。ここで,D2,S1 とは,それぞれ短大卒レベル,大学卒レベルを表す。
この目標を達成するために,イ国では,人的資源の資質向上を国家目標とし,1989 年に義務教育期間を延長し,小・中学校教育 9 ヶ年を義務化した。また,これに伴う教育課程の改訂では,科学技術の進歩に対応した理数科教育の強化が課題とされた。しかし一方で,教員の資質の向上,教育施設の改善,教育に関わる人材の育成が課題になっていた。教員資格は,1992 年,1994 年の2度の改正により,従来の基準より2年間分嵩上げされ,小学校教員については高等学校卒業後2年課程に,中学・高等学校教員は学士取得(大学4年間)に変更された。この変更により,無資格の現職教員が大量に発生し,これらの教員への資格賦与が課題となった。イ国政府は,教育大学に対し,学部における養成教育のみならず,現職教員の再教育についても改善と充実を強く期待した。本プロジェクトは,こうした背景の基に要請されたものである。
要請書のなかの「背景と理由(Background and Justification)」には,次のように記されていた。
『毎年実施される全国教育調査の結果,初等中等理数教育の成績が低い。このことは,初等中等段階の学校で行われている教授・学習過程が不十分であることに強く関連している。このことから, 初等中等段階の理数教育は,引き続き改善されなければならないことが示唆される。教師教育機関 は,自らの役割をより効率的に遂行し,また能力の高い理数科教師を養成し,あるいはレベル・アップするために強化されなければならない。インドネシア全国において,10 校のIKIPと20 校のFKIP/STKIP の理数科教育の質を改善する努力が求められる。』
また,要請書のなかの「目的(Objective)」には,次のように書かれていた。
『1. 初等中等理数科教員の質を改善できるように,IKIP バンドン,IKIP ジョグジャカルタ,IKIPマランにおける理数教育学部(FPMIPA)を強化・発展させる。
- 理数科教員研修の改善を図るため,他の IKIP/LPTK を支援する。』
この要請に基づいて 1995 年~1998 年にわたり,後述するように,いくつもの調査団がイ国に派遣され,プロジェクトの実施に向けて周到な準備がなされていった。
IMSTEP の活動は,「Ⅲ. IMSTEPの全体像と活動」の中で概略を述べるが,かなり総合的であった。それは,単に機材の供与や理科実験の技能の伝達ではなく, 学校の理数科授業の改善を目的にして,そのための現職教員教育の改善を含む教員養成の総合的・包括的な改善を目指したものであった。筆者は,教育学部に奉職していた関係で,本プロジェクトを理数科教員の教師養成について構造的に捉えて展開する必要性を強く感じた。
5.プロジェクトと筆者の関わり
1994(平成 6)年 11 月に「平成 7 年度プロジェクト方式技術協力要請案件検討依頼」が文部省から国立大学宛てにきたが,その後すぐ,インドネシアへの協力要請文書が東京学芸大学(以下,東学大)の学内文書で回ってきた。私は,授業負担も多く,学会のお世話などもあって多忙であったが,タイ国の理科教育支援の経験もあったので,少しは何かできるのではないかと思い,協力できると返答したと思う。その時は,1 人か2人の研修員受け入れや,短期間の外国出張をする程度ですむと思っていた。しかし,その後,文部省から協力者を捜すようにいわれ,あれよあれよという間に話が大きくなっていった。そしてジャワ島内の3教員養成大学の理数教育学部を支援するのだと聞かされた。
そして,しばらくして,文部省の働きかけで,このプロジェクトを支援する国内委員会が設けられることになった。初回会議は東学大で開かれた。文部省の働きかけで,JICA,文部省,東学大の教員(自然科学系の部長や教室主任,筆者や協力予定者)が集められたが,その場で筆者が国内委員長に推挙された。この推挙は,今から思うと,タイ国支援の経験(筆者のブログ 別稿)が買われたためであったと思う。その後,さらに,JICA の無償資金協力でバンドンにある教員養成大学の理数科棟の建設が本プロジェクトに連携されることになった。IMSTEP とこの理数科棟建設を合わせて,計数十億円規模の大きなプロジェクトになった。
筆者は,IMSTEPの準備期間(調査団参加等)に2年,IMSTEP の実施期間に5年,フォロウアップ・プログラム期間に2年の実に9年関与することになった。 また,IMSTEPを日本国内で支援する国内委員長を務めた。当初は,まさかその後 9 年の長きにわったてこのプロジェクトに関与することになろうとは夢にも思わなかった。
JICA からは,当初,私に1年くらいイ国に赴任してほしいという要望もあった。しかし,同僚の教授からは,私の代わりの授業負担を恐れたためであろうが,「大学をやめてから行ってほしい」と真顔で釘を刺されたりした。しかし,そうはいかない。相手は3つの大学であるし,個人としての協力ですむわけがない。大学としての協力が求められているのであるから。
当時,私は東京学芸大学連合博士課程の自然系教育講座に責任を持っていた(東学大部会長や自然科学系講座主任)が,博士課程もできたばかりで歴史も浅く,その運営も心配であった。筆者のブログの別稿にも書いたが,博士課程設置に努力された恩師の後藤捨男先生の御遺志を尊重したかった。しかし, 同僚に授業負担で迷惑もかけられない。理科教育学教室の教員は皆,授業負担や会議も多く,分刻みの生活であった。また,大学では国際教育協力のために非常勤講師を手配することもできないという。そこで,やむをえず,夏休みや教育実習期間中にイ国へ短期出張することにした。夏休み は,普段は忙しくて研究ができないので,集中して研究できる貴重な期間であったが,研究をあきらめて協力することにした。少し悲しかったが・・・。また秋の教育実習期間中も,通常は東学大の教員達は学生が教育実習を行っている附属学校や一般の実習校へ連絡教官としてゆくのであるが,それを免除して頂いてインドネシアに出張した。
フォロウアップ・プログラム実施期間中(2004 年 10 月~2006 年 9 月)は,私は東学大の附属竹早中学校の校長も歴任(2004 年 4 月~2008 年 3 月)しており,ますます時間的にひっ迫していた。
6.プロジェクトの設計
JICA のプロジェクトはデザイン・マトリクスという目標や達成期間などをまとめた表をつくり, それに従って進めることになっていた。本プロジェクトのデザイン・マトリクス(Project Design Matrix:PDM)は,JICA の比嘉京治氏がそれまでの JICA の国際教育協力の経験(インドネシアの工科大?支援)を生かされて,イ国側の要請書を精密化して,活動目標と各活動の実施期間予定を表にした英文の詳細な原型をつくった。この作成に当たっては,もちろん私も比嘉氏から相談を受けたが,このマトリクスは,A3 用紙 2 枚に小さな字でびっしり書かれたものであった。
この PDM は,当初,日本側で,比嘉氏と私で相談しながら大枠をきめていったが,比嘉氏の力が極めて大きかったと思う。この PDM 案を事前調査,長期調査,実施協議調査などにおいて,イ国の大学関係者(数十名くらいだったと思う)とイ国の教育省内で何度も協議してまとめあげた。今後の活動内容を討議して若干修正したりした。このことは,IMSTEP 活動について,相互理解を深められた重要なステップであったと思う。イ国側の参加者は熱心で有能な先生方というのが,その時の印象である。この PDM は,プロジェクトの全期間中を通じて,活動のベースになったものである。この PDM の実際の運用は,イ国側のカウンターパートが実施するのであるが,助言や業務の調整は IMSTEP 事務局に常駐のチーフ・アドバイザーや業務調整員が行った。私は国内委員長として,PDM に記載された目標が,プロジェクト全体として達成されるように,状況をよく見, 現地の方々とよく対話して,状態をよく把握するように努めた。
7.IMSTEP 全体の流れ(年表)
IMSTEP については,1994 年には,文部省内で検討が開始された模様である。
筆者は,インドネシアの教育事情に詳しい名古屋大学教育学部の西野節男先生からイ国の教育状況を伺ったことがあった。
前埼玉大教授の下澤隆先生は,イ国の高等教育総局所属の専門家であった。下澤先生は,このプロジェクトの各種調査団がイ国に派遣されている間,調査団に同行して下さったり,イ国事情を教えてくださったり,我々にいろいろと便宜を図って下さった。同先生とは,個人的には,科学教育学会でよくお目にかかった。東学大にも化学教育の講演にいらしたこともあった。IKIP バンドンのヒンドワン先生が下澤先生と一緒に東学大を視察し,私が案内したこともあった。ヒンドワン先生は,その後も数回東学大を訪れている。
1996 年には,インドネシア共和国の教育についての報告が出されている(本田 1996)。IMSTEP 開始までに,いくつかの調査団がイ国へ派遣された。はじめはプロジェクト実施の可能性やイ国側の教育の調査が主であったと思われるが,IMSTEP を実現化するために次第に具体的な活動についての調査に移って行き,最後は PDM を相互に徹底的に協議して誤解のないようにしてR/D 署名と進んだ。PDM の作成は,JICA 職員の比嘉氏の経験によるところが大きかったと思う。そして 1999(平成 11)年 10 月より 5 年にわたり IMSTEP が実施された。この間,中間評価調査団,終了時評価団が派遣され,IMSTEP は 2003(平成 15)9 月に終了した。IMSTEP 終了後,引き続きフォロウアップ・プログラムが2年間実施された。プロジェクトの主な動きと筆者の派遣を中心にしてプロジェクトの流れを示したものが表 7-1 の「プロジェクト年表」である。
私は事前調査団から参加したので,Ⅱ(章)では,事前調査団以降を多少詳しく述べる。
参考文献 〔Ⅰ. プロジェクトの概要と始まり(略語表,地図,年表)〕
日浦賢一:フィリピンで進めてきた科学教育の国際協力の現状と課題-フィリピン理数科教師訓練センター
プロジェクト 事例研究,日本学術会議科学教育研究連絡委員会編,学術会議叢書 2,
「科学技術教育の国際協力ネットワークの構築」(日本学術協力財団),90-100, 2000.
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下條隆嗣:インドネシアで進めている理数科教育についての国際協力からみた国際教育協力の課題 ,ibid., 78-89, 2000.
下條隆嗣・遠山紘司:インドネシア国初中等理数科教育拡充計画の理念と課題,国際教育協力論集 2 (2), 広島大学教育開 発国際協力研究センター,93-106, 1999 年 10 月.
下條隆嗣:国際教育協力と教育学部の国際化,日本科学教育学会年会論文集 24,57-58, 2000,7月.
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下條隆嗣:日本の国際教育協力における大学の役割-科学教育を中心にして-,国際教育協力論集 5 (1), 広島大学
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下條隆嗣:国際教育協力に寄与する日本の理科教育,理科の教育(東洋館出版社,日本理科教育学会編集),
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本多泰洋 ・中本孝男:インドネシア共和国の教育と現状,鳴門教育大学研究紀要(教育科学編),
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