回教国家パキスタン
ユネスコの自然科学教育関係の仕事で,4月の1ヶ月間,パキスタンに滞在する機会を得た。カラチ経由で,まだ新緑の美しいパキスタンの首都イスラマバードへ直行した。イスラマバードは,森の中に新たに建設された都市で,近くの旧都市ラワルピンディと全く趣を異にする。4月は春から夏への変わり目の時節で,初旬には朝夕涼しい位であったが,じきに暑くなり始め,下旬には38度を超える日々が続いた。
街には日本車が多く走っている。日本人が世話をしているという庭園もあり,仕事の合間の遠足で訪問したインダス河上流のダムでは日本製の発電機が稼働中であるなど,日本との関係も少なからずある。
「アッサラーム・オ・アレコム(あなたに平和あれ)」,これが挨拶の言葉である。重々しいが,何と格調が高い言葉であろうか。街中には大小のモスクがいたる所にあり,サウジ・アラビア王の寄金による世界最大と言われる美しい近代的なモスクも完成を間近に控えていた。このモスクの内には,回教を教えるイスラム大学も併設される。
パキスタンでは,宗教は日本よりずっと生活に密着しているように思われる。ホテルにいると近くのモスクからコーランを読む声が拡声器を通して聞こえてくるし,テレビでも子供向けにコーランの学習を放映している。筆者の参加した科学教育推進のための教育省内の研修においても,毎日コーランの朗読が開始の儀式であった。
この国では,邸宅とテント小屋に象徴される両極端の豊かさと貧しさがみられる。男性はほとんど皆立派な口髭をつけており,また女性は都市部を別として頭からすっぽりチャドルを纏っている。人々の服装は一般に質素で,宗教上禁酒を守っている。1年の半分は暑く,自然環境は厳しい。人々は回教を信じ質実な生活を送っているが,この国も近代化の荒波にもまれ始めているようである。
パキスタンはインドの西側に隣接し,北東部は世界第二の高峰K2を初めとする高山が連なるヒマラヤ山地,南部は最古の都市遺跡の一つモヘンジョダロがある肥沃な平地,東南部は原油を算出する砂漠地帯,西北部は往時の「絹の道」が通る山岳地帯である。インドから東・西パキスタンが独立し,さらに西パキスタンが現在のパキスタンに独立したという歴史が示しているように,この国ではインド文化と英国文化の強い影響が伺われる。インドからの独立の理由は,宗教にあると聞いた。ヒンズー教徒は,独立の際にほとんどインドへ移動したそうである。このように,パキスタンは,地理的にも文化的にも,また歴史的にも多様性に富んだ国である。
パキスタンは現在,回教によって結束されている国家と言える。すなわち,政治と宗教の結合が益々強化されようとしている。パキスタン滞在中,現地の新聞やテレビで「イスラム化」という言葉を数多く耳目にした。ちなみに,首都のイスラマバードは「イスラム教徒の街」という意味を持っている。
科学は自然界の真理を探究する。宗教は精神界の真理の探究とともに,心のやすらぎを求めるものではないかと思う。科学を通じて自然界を深く理解すれば,それはとりもなおさず人間を深く理解することにつながる。その点で,科学と人間の関係は,宗教と人間の関係に共通するものがあると思う。
しかし,政治と宗教の関係はどうであろうか。政治は,民主国家では多数決の原理で動くもので,科学と宗教とは立場が異なる。世界の大部分における近代史は,政教分離の方向に進んできたと思われるが,パキスタンにおける一見時代に逆行するように見える政教一体化の動きの背景とその将来像は,回教の基本理念とも相まって興味深い問題である。
この国の識字率は低く,25%以下であるという。初等教育を充実するにも校舎が不足しているが,現在その解消に向けて国内至る所にあるモスクの内に小学校を設ける計画が進んでいる。大学へ進学する者はほとんど技術者か医師になりたがる。しかし,最近では,これら高度の職能者の失業も増加中と聞いた。また純粋科学を専攻する学生の数が少なく,社会発展上の問題となりつつあるそうである。
パキスタンには,仏教遺跡やガンダーラ芸術の文化遺産が多い。筆者もイスラマバードから車で1時間程度の所にある街タキシラを訪れた。ここには,仏教の僧院の仏教遺跡と博物館がある。僧院の仏教遺跡は小高い丘の頂にあり,そこからの眺めは美しい。そこの仏像は異教徒によって一部が破壊されていた。
博物館には,金貨,金銀細工,ガンダーラ様式の仏像などが陳列されている。また十数世紀前につくられた土器でできた水の蒸留装置の展示に驚かされたが,それは筆者にかつての華々しいアラビア科学の栄光を想い起こさせてくれた。
多くの民族と宗教の興亡がこの地を襲った。このような数十世紀を遡る歴史的遺跡や文化遺産を眼前にしたとき,その歴史に吸い込まれるような錯覚を覚え,また「人間とは何か」という疑問が筆者の心の内に彷彿と湧き出してきた。
1985(昭和60)年10月記
(この原稿は,35年ほど前に,執筆を依頼されてある雑誌に投稿したものを多少手直ししたものである)