私の大学教員生活

私の大学教員生活 エピソードや主な動きを紹介したい。 助手時代 1969年春,修士課程修了後,学校教員も採用数が少ない就職難の時代であったが,幸い,都や近県の高校教員採用試験を受けて合格し,採用の打診もいくつか頂いていたが,恩師の後藤捨男先生から助手になるよう言われて,同年4月から学芸大の物理学教室の助手に採用された(当時は助手の公募制は無かった)。 当時,物理学教室には3人の助手枠があった。当時の助手は,学生の物理実験の授業の手伝いが主なもので,時間的な余裕があれば,少し研究もできた(実際のところは,授業などがある日中は研究はほとんど無理で,午後5時過ぎから研究時間を確保できた)。助手は,学校教員になる前に,さらに実力を養うための短期的な職員とみなされていたようで,2,3年在職後に学校へ就職してゆくのが通例だった。 当時の...
2020-03-29Shimojo Takashi

物理学から理科教育学への転進

物理学から理科教育学への転進  私は1980年に東京学芸大学の物理学教室の助手から講師に昇任させていただいたが,1984年に同大の理科教育教室に移籍した。私はなぜ物理学から理科教育学へ転身することになったのか。このことに関して,在職中,広島大にいらしていたフィリッピンの大学のMagno先生の訪問を受けて,表題のことの調査を受けたこともある。 このことを語ろうとする時,当時学大の物理学教室におられた後藤捨男先生と鳥塚一男先生に触れないわけにはいかない。両先生との出会いが私の移籍を主としてバックアップしたといえる。特に後藤捨男先生のことは,別のプログ「恩師を偲ぶ-後藤捨男先生」に記すことする。 学大の理科教育教室創設に大きく貢献された先生は,私の知る限り,この両先生と古谷庫三先生であると思う。古谷先生は生物科所属で生物科の主任も...
2020-03-29Shimojo Takashi

東学大の理科教育学教室-創生期の苦しみ 

東学大の理科教育学教室-創生期の苦しみ 東学大の理科教育学教室は,現在では教科教育学を教育・研究する分野の一翼として学内ですっかり定着しているが,発足当初は生みの苦しみがあったと思う。 私が学芸大の物理学助手に採用(1969)されて数年後のことであったと思うが,第三部(現在の自然科学系)に理科教育教室が設置する動きがでてきた。発足当維の状況は,はっきりとは覚えていないが,いろいろなご苦労があったことは確かだ。なお,教室の名称は,以後数回揺れ動いた。最初は理科教育教室だったが,後に理科教育学教室になった。 後藤捨男先生が物理学教室の主任か部長職にお着きで,私が助手の頃に,こうした動きがでてきたと思う。後藤捨男先生と生物学教室主任の古谷庫三先生が,設置について頻繁に相談されていたのを覚えている。 理科教育教室の発足当初は,2,3...
2020-03-29Shimojo Takashi

恩師を偲ぶ 後藤捨男先生

恩師を偲ぶ 後藤捨男先生 後藤捨男先生との出会いが私の一生を決めたように思う。 後藤先生には,学部時代の指導教官と卒業研究,修士課程の指導教官として御指導を受けた。さらに私は助手として御採用頂き,研究面でも御指導を受け,後藤先生には永きにわたりお世話になった。私が博士学位(論文博士)を取得できたのも後藤先生のご指導のお陰である。ご期待に添えなかったことも多々あり,思い出すと申し訳なく思う。 先生は1980(昭和55)年4月に定年退官されたが,長年にわたって,物理学の研究・教育,科学教育の振興等に努められ,また,教師養成 に関して日本の教育界に多くの貢献をなされた。大学運営にも大きく貢献された。先生の業績を簡単にご紹介する。 後藤先生は, 学術分野においては,電磁波理論,素粒子研究,核融合研究 および  科学教育(理科教育)の...
2020-03-29Shimojo Takashi

ケニア訪問記 (2006)

竹中生徒会誌「潮」2006 ケニア訪問記 校長  下條隆嗣 仕事でこれまで北米,ヨーロッパ,アジアのいろいろな国を訪問したが,昨年(平成17年)12月12日~18日まで,初めてアフリカのケニアを広島大学教育開発国際協力研究センターの教授二人と共に訪問した。この時の体験談は,全校集会で「土産話」として披露したが,多少追記してここに記させて頂く。 今回の出張の仕事は,広島大学とケニアのケニヤッタ大学が合同で開催する小さな会議(ワークショップ)への参加であった。これは,日本の国際協力機構が実施している発展途上国の理数科教育の改善事業について,教室レベルの効果をはかる評価法を検討するもので,日本,ケニア,ガーナ,南アフリカ,フィリッピン,インドネシアから関係者が集まって催された。私は,インドネシアに長年関わってきた関係で,インドネシ...
2020-02-19Shimojo Takashi

新しい生き方-白秋歌碑を見て思う (2008)

〔生徒会誌「潮」2008〕 新しい生き方-白秋歌碑を見て思う 学校長 下條隆嗣 昨年の年末に休養のために岐阜県恵那市にある恵那峡を訪れた。恵那峡ダムの近くにある「さざなみ公園」で北原白秋の歌碑に出会った。 薄のにしろくかほそく立つ煙 あわれなれとも消すよしもなし 「ススキの野原にうつすら細い煙が立っている。きっと火がついているのだろう。ススキが燃えてしまつてかわいそうだが,消すこともできずどうしようもない」という意味であろうか。 白秋は幾度となくこの地を訪れたようだが,この歌を詠んだのは,ダムができる前かできた後かはわからない。ダムができる前はきっと川岸のあちこちにたくさんのススキ野が広がっていたのであろう。しかし今の満々と水をたたえた川の川辺にも枯れたススキの群落が小規模ながら点在している。 私はこの歌に出会って胸がキュン...
2020-02-19Shimojo Takashi

「和の精神」と教育 (2005) 

(附属竹早中学校後援会 創竹会 広報誌原稿2005) 「和の精神」と教育 学校長  下條隆嗣 本年も夏休み期間中に,国際協力機構(JICA)の初中等理数科教育の仕事でインドネシアにきている。プロジェクト開始前の調査に参加した頃から数えて10年ほど過ぎ,この国への出張も10回を下らない。当初は,ジャワ島内の3大学における理数教育学部の教員養成支援の仕事(学部の実験設備等の基盤整備や大学生用の教科書開発など)が主であったが,4年前程から,大学と学校とが協力して授業研究(「研究授業」を含む)の普及に力を入れてきた。その結果,最近ではこちらの大学教員も学校の教員も一緒になって,授業研究に熱心に取組むようになってきた。こうした活動を通して思うことは,日本において,授業研究は,授業の質の向上を通して,日本人の子どもの能力を引き出し,子ど...
2020-02-19Shimojo Takashi

これからの時代に生きる力 (2005)

〔竹早中学校広報委員会報「潮51」2005〕 これからの時代に生きる力 学校長    下條 隆嗣 二十一世紀に入って,早や五年が過ぎた。新しい世紀に入った頃は,二十一世紀の世界はどうなるか,どうすればよいかなど,ジャーナリズムでも取り上げられたり,いろいろな学会などでもよく議論されたと思う。しかしこの頃はあまり,そうした動きを聞かない。熱し易くさめやすい国民性のゆえかもしれない。しかし,これは重要な課題で,じっくりと追求すべきであると思う。 明治以降,日本は工業化社会に向けて走ってきた。しかし今は脱工業化社会あるいは情報化社会となり,これからは知識社会がくると言われている。一方,石油資源の枯渇,水不足,大気汚染など,現代人の生活の負の遺産が地球規模で現れている。地球環境を保全しつつ経済発展を実現するという「持続可能性」という...
2020-02-19Shimojo Takashi

附属竹早中学校としてのキャリア教育 (2004)

(竹中PTA会報,第86号(12)2004.12.20発行) 附属竹早中学校としてのキャリア教育   学校長  下條 隆嗣 昨今、新聞紙上で、「キャリア教育」という言葉や、学校におけるその実践例などの紹介もまま見られるようになってきた。「キャリア教育」は、学校において、児童生徒一人一人にふさわしいキャリアを形成していくために必要な意欲・態度や能力を育てるという教育である。ここで、「キャリア」とは、「個々人が生涯にわたって行う様々な立場や役割の連鎖およびその過程における自己と働くこととの関係づけや価値づけの累積」(文科省)というのが一般的であろう。キャリア教育が問題視されるようになってきた背景には、少子高齢社会の到来、産業・経済の構造的変化とそれに伴う雇用の多様化・流動化等があり、就職・進学などの進路選択をめぐる環境の大きな変...
2020-02-19Shimojo Takashi